2026.06.09

合鍵

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1,437文字 約2分

下北沢の駅から徒歩八分、二階建てのアパートの二階の角部屋。律が階段を上がっていくと、ドアの隙間から、何かが動いている気配が漏れていた。

合鍵を回す前に、すこし、戸惑った。律は鍵を抜き、ノックの代わりにドアノブをそっと回した。

「ただいま、って言うやつ」

中で、透の声がした。玄関に立って、両手にスリッパを持っている。引っ越しの段ボールを背景に、まだ半分しか開いていない箱の山が、廊下の奥まで続いていた。

「お前、いつ来た」

「三時間前」

二人で内見に来たのは先週で、引き渡しの日に二人で来ようと話していたはずだった。律は朝、急な打ち合わせが入って、夕方になった。透はそれを聞いて、先に行くわ、とだけLINEを返してきた。先に行く、を、こうも先に行くと取るとは思わなかった。

部屋に上がってみると、段ボールはほとんど開いていた。

キッチンの食器は、律がふだんよく使う側の戸棚に積まれている。重いものは下、軽いものは上。本棚は、リビングではなく、北側の小部屋に組まれていた。律が静かに本を読みたいと言ったことがあったかどうか、自分でも記憶が定かでない、その種のことを、透は覚えていた。

風呂場のシャンプーの位置は、律の前のひとり暮らしの並びそのままだった。

「なんで、わかった」

訊くと、透は照れたように笑った。

「お前の家、何回も泊まってるし」

律の家のシャンプーの並びは、律自身ですらたまに位置を間違える。透は間違えていなかった。よく覚えてるな、と律は思った。

二人で住むには、玄関の靴のサイズも、棚の高さも、それなりに問題になる。透は背伸びをせずにキッチンの上の戸棚に手が届く。律も、ぎりぎり届いた。透の方が、たぶん指の節ひとつぶん大きい。それは養成所のミラーの稽古からずっと変わっていなくて、変わらないことに律はすこし安心する。

そのフックは、律の手が届きやすい高さに、ひとつだけ低く付け替えてあった。

「これ、お前がやった?」

「うん。律のは、ちょっと下にしといた」

透は当然のように言う。

「俺、別に届くけど」

「届くけど、毎日のは楽な方がいい」

律は、ありがとうな、と短く言った。本心からの、ありがとうだった。本心からのありがとうの口の動かし方を、律はよく知っているつもりだったが、自分の発した声が、なぜか少しだけ、ふだんより硬かった。そうするつもりもなかったのに。なぜそうなったのか、その時はまだわからなかった。

夜、ベランダに出ると、透が手すりに肘をついて空を見ていた。律より半歩前に出ている背中が、街灯のあかりで黒く浮かんでいる。背の高さは、ほぼ同じ。けれど、こうして横に並ぶと、透の方がいつもすこしだけ前に出ている気がする。歩幅のせいなのか、性格のせいなのか、律にもわからない。

「住むの楽しみだな」

透が言った。

「うん」

うん、と律は返した。返してから、自分の声が、いつもより自分らしかったかどうか、しばらく確かめていた。

確かめている自分がいる、というそのこと自体が、律の中に、はじめてできた小さな引っかかりだった。引っかかりは、その夜のうちには名前がつかなかった。透のいれてくれた茶を飲み干して、組み立て途中の本棚に背中を預けて、律はそのまま、すこしのあいだ目を閉じた。

透と律 シリーズの他の作品

  1. 客席の灯り
  2. 買い置き
  3. 湯気
  4. 巣鴨の路地