2026.08.28

別れる、と律は言う

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1,290文字 約2分

四月の終わり、律から会いたいと連絡が来た。指定された場所は、二人がよく使っていた喫茶店ではなく、巣鴨の駅前のチェーンの方だった。それで、おおよそ察しはついた、と透はあとで思ったが、その時はまだ察しきれていなかった。

向かいの席に座った律は、コーヒーを頼んで、ミルクを入れずにひと口飲んだ。

「俺、芝居やめる」

切り出し方は、律らしかった。

「やめる、って」

「演者の方は、引く。これからは脚本を書く。映画も、撮ってみたいと思ってる。プロデュースとマネジメントも、紹介もらってる」

透は、うん、とうなずいた。律のキャリアの話として聞いていた。聞きながら、それが律のキャリアの話で終わらないことも、半分くらいはわかっていた。

「それと」

律は、コーヒーをもうひと口飲んだ。

「俺たち、別れよう」

別れよう、と発音した律の声は、ふだんの律の声だった。芝居の声ではない。透の知っている、いちばん古い律の声だった。

透は、すこしのあいだ、なにも言えなかった。

律が言葉を続けた。

「俺は脚本を書く側に回る。お前を、俺が書いた役で縛りたくない。プライベートで縛るのも、もう、やめる」

「縛られて、ないけど」

「縛られてないと思ってるところが、お前のいちばん怖いところだ」

透は、口の両端をやわらかく持ちあげた。律のことが好きだ、ということが、それで伝わればいいと、そのときも思った。

律は、笑い返さなかった。腹も立てない。

ただ、透の笑顔をしばらく見て、それから、視線を、コーヒーカップに落とした。

それで、透は初めて、何かが終わったのだとわかった。

これまで、この笑顔を律に向けると、律は必ず何かしらの反応をした。笑い返さないか、舌打ちをするか、視線をそらすか。怒ったり、苛立ったり、苦しんだりする。今日の律は、どれもしなかった。透の笑顔を、もう、引き受けないことにしたのだ。

「律」

呼んだ声が、自分の声だったのか、誰かの声だったのか、わからなかった。

律は、顔を上げて、すこしだけ笑った。

「お前のこと、いまも好きだよ」

それは、律らしくない言い方だった。律らしくない、と思った時点で、透は、ずっと一緒にやってきた人のことを、自分はあまり知らないままだったのかもしれない、と気づいた。気づいた、というのは大げさで、ほんとうは、わずかに疑った、という程度のこと。それでも、十年以上のあいだに、こんな疑いは一度もなかった。

「うん」

うん、しか言えなかった。

律はコーヒー代を置いて、立ち上がった。出ていくときの背中が、舞台を降りる役者のそれだった。律はもう演者を引くと言ったのだから、最後にそう見えたのは、たぶん、透の目のせいだった。

ひとりでテーブルに残された透は、しばらく、自分の口の両端が、まだ少し持ち上がったままになっていることに気づかない。気づいたとき、それを下ろすのに、いつもよりずっと時間がかかった。

透と律 シリーズの他の作品

  1. 鏡
  2. 合鍵
  3. 客席の灯り
  4. 買い置き
  5. 湯気
  6. 巣鴨の路地