四月の終わり、律から会いたいと連絡が来た。指定された場所は、二人がよく使っていた喫茶店ではなく、巣鴨の駅前のチェーンの方だった。それで、おおよそ察しはついた、と透はあとで思ったが、その時はまだ察しきれていなかった。
向かいの席に座った律は、コーヒーを頼んで、ミルクを入れずにひと口飲んだ。
「俺、芝居やめる」
切り出し方は、律らしかった。
「やめる、って」
「演者の方は、引く。これからは脚本を書く。映画も、撮ってみたいと思ってる。プロデュースとマネジメントも、紹介もらってる」
透は、うん、とうなずいた。律のキャリアの話として聞いていた。聞きながら、それが律のキャリアの話で終わらないことも、半分くらいはわかっていた。
「それと」
律は、コーヒーをもうひと口飲んだ。
「俺たち、別れよう」
別れよう、と発音した律の声は、ふだんの律の声だった。芝居の声ではない。透の知っている、いちばん古い律の声だった。
透は、すこしのあいだ、なにも言えなかった。
律が言葉を続けた。
「俺は脚本を書く側に回る。お前を、俺が書いた役で縛りたくない。プライベートで縛るのも、もう、やめる」
「縛られて、ないけど」
「縛られてないと思ってるところが、お前のいちばん怖いところだ」
透は、口の両端をやわらかく持ちあげた。律のことが好きだ、ということが、それで伝わればいいと、そのときも思った。
律は、笑い返さなかった。腹も立てない。
ただ、透の笑顔をしばらく見て、それから、視線を、コーヒーカップに落とした。
それで、透は初めて、何かが終わったのだとわかった。
これまで、この笑顔を律に向けると、律は必ず何かしらの反応をした。笑い返さないか、舌打ちをするか、視線をそらすか。怒ったり、苛立ったり、苦しんだりする。今日の律は、どれもしなかった。透の笑顔を、もう、引き受けないことにしたのだ。
「律」
呼んだ声が、自分の声だったのか、誰かの声だったのか、わからなかった。
律は、顔を上げて、すこしだけ笑った。
「お前のこと、いまも好きだよ」
それは、律らしくない言い方だった。律らしくない、と思った時点で、透は、ずっと一緒にやってきた人のことを、自分はあまり知らないままだったのかもしれない、と気づいた。気づいた、というのは大げさで、ほんとうは、わずかに疑った、という程度のこと。それでも、十年以上のあいだに、こんな疑いは一度もなかった。
「うん」
うん、しか言えなかった。
律はコーヒー代を置いて、立ち上がった。出ていくときの背中が、舞台を降りる役者のそれだった。律はもう演者を引くと言ったのだから、最後にそう見えたのは、たぶん、透の目のせいだった。
ひとりでテーブルに残された透は、しばらく、自分の口の両端が、まだ少し持ち上がったままになっていることに気づかない。気づいたとき、それを下ろすのに、いつもよりずっと時間がかかった。