コラボカフェのドリンクは、おいしくなくていい。
鹿野くんのイメージドリンクは「Sunshine Squash」と名前だけは洒落ていたけれど、中身はメンバーカラーの黄色にちなんだレモンシロップを炭酸で割っただけの液体だった。甘さが舌にべたっと残って、酸味は最初のひと口で消える。
パンダちゃんがストローから口を離した。
「おいしくない」
「うん」
「でも飲む」
「飲む」
パンダちゃんはもう半分以上飲んでいる。おいしくないと言いながら手が止まらないのは、味ではなく意味を摂取しているからだと思う。
「やぎさんってさ、推しの好きな食べ物食べる人?」
「食べる。メロンパン」
「あー、ラジオで言ってたやつ」
鹿野くんが「焼きたてのメロンパン食べると元気出るんですよね」と言ったのを聞いて、翌日パン屋に行った。焼きたてを買って、紙袋の甘い匂いを嗅いで、さくさくの皮を噛んだ。おいしかった。普通に。
でも、鹿野くんの「元気出る」と私のおいしさが同じかどうかはわからなかった。同じメロンパンを食べていても、彼の舌が受け取る甘さと私の舌が受け取る甘さは違う。「元気出る」のスイッチがどこにあるかも違う。
「食べてどうだった?」
「おいしかった。それだけ」
「だよね」
パンダちゃんがストローで氷をかき混ぜた。からんと鳴った。
「味ってさ、見えないし聞こえないし触れないでしょ。自分の口に入れないとわかんない。推しがどんな味を感じてるかって、いちばん遠い情報じゃない?」
パンダちゃんの観察はいつもこういうふうに身体から入る。握手会のときも接触面積の話をしていた。この子は抽象と感覚の距離が近い。
「いちばん遠い。たぶんそう」
色は見える。推しの纏う色は、似合わなくても目に入る。声は聞こえる。帯域さえ合えば、集中していても耳が拾う。匂いは届く。望まなくても鼻が受信する。体温は三秒だけ手のひらに残った。
でも味は来ない。
四つの感覚は、推しが発して私が受け取る構造を持っている。味覚だけが違う。推しの側から私の舌に届くものが何もない。メロンパンを買いに行ったのは私で、食べたのも私で、「鹿野くんと同じかな」と思おうとしたのも私だった。受信ではなくて、自分から取りに行っている。五感のうち味覚だけが能動だった。
「私もね」パンダちゃんがカップを両手で包んだ。白いレースの袖口から、バーガンディピンクの爪先が覗いている。「舞台の推しが差し入れにいつもシュークリーム持ってくって聞いて、同じ店で買ったことある」
「どうだった」
「おいしかった。で、これが推しの好きな味かって思った。思っただけ」
パンダちゃんが少し間を置いた。
「思っただけなんだけどさ、あの味、まだ覚えてる。ほかの店でシュークリーム食べても、あれとは違うなって思っちゃう。推しのシュークリーム、って棚が別にできちゃってる」
「推しのシュークリーム」
「推しが食べてるわけじゃないのにね。私が勝手に食べて、勝手に紐づけて、勝手に特別にした味」
勝手に紐づけた味。それは受信ではなくて、保存だ。
推しの色は目に映って消える。声は耳を通り過ぎる。匂いは記憶に貼りつくけれど、それは他者から来たものが残る現象で、自分の意志とは関係がない。体温は三秒で揮発する。
味だけが、自分で作って自分で保存する。推しはその味を知らない。知るわけがない。ファンのひとりがメロンパンを食べたことも、その味を推しに紐づけていることも。完全に一方的な書き換えで、だから消えにくい。受信した情報は上書きされるけれど、自分で作った情報は自分が忘れるまで残る。
「もう一杯飲む?」
パンダちゃんが空のカップを持ち上げた。
「おいしくないって言ってたのに」
「おいしくないから覚えるんだよ。おいしかったら味の記憶で完結するけど、おいしくないと、飲んだ場所と、そのときの気持ちと、誰といたかまで全部くっついてくる」
パンダちゃんがカウンターに向かった。白いフリルのスカートが揺れている。
たぶんそうなのだ。おいしくないコラボカフェのレモンスカッシュを、来月もまた飲む。飲むたびに今日の午後がくっついてきて、そのうちレモンスカッシュは味ではなく日付になる。何月何日に誰と飲んだか。そのとき推しのことをどう思っていたか。味覚は五感のなかでいちばん受信域が狭いのに、いちばん余計なものまで保存する。
パンダちゃんが戻ってきた。同じ黄色の液体が、新しいカップに入っている。
一口飲んだ。やっぱりおいしくない。
でもこの味を、たぶん来年も覚えている。