最近気になるグループがあるんだけど、と言ったのは私のほうからだった。
佐和がアイスコーヒーのストローから口を離して、目だけでこっちを見る。
「あの五人組?」
「なんでわかんの」
「最近売れてきた五人組なんてひとつしかないでしょ。おー、推し誰」
佐和の声にすでに含みがある。たぶん鳥羽くんか鷲尾くんだと踏んでいる。私の好みの傾向を考えれば当然の推測で、シュッとした顔が好きなこと、歌が上手い人に弱いこと、その二つを佐和は何年も前から知っている。
「たぶん意外って言われると思うんだけど」
「うん」
「鹿野くん」
佐和が二秒ほど黙った。コップをテーブルに戻して、それから「えー」と言った。声は裏返っていないけれど、まばたきの回数が増えている。
「意外。鳥羽くんか鷲尾くんかと思ってた」
「私もそう思ってた」
「だってあんた、年下ポジかわいい系でしょ? わりとシュッとした顔のほうが好きじゃん、あと歌うまい人」
「ほんとその通りなんですけど」
「なんで? バラエティとか観て?」
「いや、全然観てなくて」
コーヒーの氷がからんと鳴る。なんて言えば伝わるのかわからなかった。わからないまま口が動いた。
「たぶん、声のHz?」
「……ヘルツ?」
佐和が怪訝な顔をしている。そりゃそうだ。
Hzという言葉を思いついたのはつい最近のことで、思いつく前からその感覚はずっとあった。
職場で、上司の本田さんに注意されるとき、まったく同じことを、おそらくまったく同じ声色で言われているのに、すっと入ってくる日と、なんかむかつくなと思う日がある。
本田さんは別に嫌な人ではない。言い方が高圧的なわけでもない。「ここ、ちょっと確認いい?」という第一声のトーンも毎回ほぼ同じで、たぶん本田さんなりに一定を保っている。
なのにある日は素直に「すみません、直します」と言えて、ある日は同じ「ここ、ちょっと確認いい?」がやけに鼓膜の近くで鳴って、内容が頭に入るまでにワンテンポ余計にかかる。
本田さんが変わっているのではない。私の受信状態が違う。
同じ周波数の音が、ある日は透過して、ある日はぶつかる。疲れているとか寝不足だとか、そういう雑な理由では片づかない粒度で、日によって可聴域のかたちが変わっているような気がする。
もっとも、こんなことを職場で言ったら頭がおかしいと思われるだけなので、誰にも言っていない。
佐和にだけ、今、言っている。
「声が好きっていうのとは違うの?」
「違う。声が好きっていうのだったら声優の深津さん、あの低めのきれいな声の人」
「あー、わかる」
「深津さんの声はめちゃくちゃ好き。いい声だなあって思うし聴いてて気持ちいい。でもそれと鹿野くんのは種類が違うんだよね」
佐和が首をかしげている。私も自分が何を言おうとしているのかまだよく整理できていない。
「えっと……あのね、ちょっと話飛ぶけど」
「うん」
「前に仕事ほんと忙しくて死にそうだったとき、覚えてる?去年の秋くらい」
「覚えてる覚えてる。メッセージ既読つかなかったやつ」
「あのとき、声優の時田さんの声が、ほんと言葉悪いけど癇に障って」
「えっ、時田さん!? めっちゃ有名な人じゃん。いい声でしょ」
「いい声なの。それはわかってた。でもあの時期だけは聴くだけでイライラしてたの」
佐和がストローをくわえたまま黙っている。信じていないのではなくて、咀嚼している顔だ。
「でさ、元気になったら全然平気なの。やっぱりいい声だなって普通に思う」
「……うん」
「てことは、体調で刺さるHzと、そもそも刺さるHzは別にあるんじゃないかと思って」
「刺さるHzが二種類ある」
「そう。受け取れる帯域が体調で変わるっていうか」
帯域が変わる、という言い方が正しいのかはわからない。ただ、この仮説のことを考えると、どうしても思い出す声がひとつある。
岸くんの声。
付き合っていた頃、岸くんの声は私にとって最も安全な周波数だった。安全、という言い方は色気がないけれど、ほかに当てはまる言葉がない。どんなに仕事で消耗して帰ってきても、電話越しの「おつかれ」のひと言で何かがほどけた。声の高さとか滑舌とか、要素に分解すれば特筆するところは別にない。客観的にいい声だとも思わない。ただ、あの声は私の可聴域のまんなかにいた。
変わったのは三年目の冬くらいからだったと思う。
べつに喧嘩をしていたわけではない。大きな事件があったわけでもない。ただ、ある日の電話で、岸くんが何か話しているのを聞きながら、私は自分がその声を音として処理していることに気づいた。意味は追っている。返事もしている。でも声が、届いていなかった。あんなにまんなかにあった周波数が、いつの間にか可聴域の端のほうに移動していた。
岸くんの声が変わったのではない。本田さんのときと同じだ。変わったのは私のほうで、でも本田さんのときと決定的に違ったのは、それが一日単位の揺らぎではなくて、もう戻らないたぐいの変化だったということだ。
数ヶ月後に別れた。理由はありきたりな言葉で済ませた。すれ違いが増えた、お互い忙しくなった。全部嘘ではないけれど本当でもなかった。
あなたの声が届かなくなりました、が正直なところだったのだと思う。言ったところで意味不明だから言わなかった。
「……ごめん、ぼんやりした」
「いいけど。大丈夫?」
「大丈夫。で、鹿野くんの話に戻ると」
「うん」
「鹿野くんって正直さ、顔がめちゃくちゃいいとか歌が上手いとかダンスが上手いとかそういうの特にないじゃん」
「スッとひどいこと言うな」
「ひどいけど事実でしょ。でも声を聴いたとき、なんか――通ったの」
「通った」
「うん。すとんって。たぶん初めて聴いたときから。なんの文脈もなくて、曲も別にそこまで好みじゃなくて、でも声だけが変に正確に届いた」
佐和が少し目を丸くした。
「あとね、仕事中に曲かけてるときあるじゃん」
「あー、うん」
「集中してるとだいたい音楽聞こえなくなるの、私。BGMとして流してるだけで、誰が歌ってるとかもう意識にないんだけど」
「わかる」
「鹿野くんのときだけ、ふっと我に返るの」
佐和のまばたきが一回、多い。
「集中してるのに?」
「集中してるのに。パートが来ると気づく。あ、いま鹿野くんだ、って。ほかの四人のときはそうならない」
佐和がテーブルに頬杖をついて、しばらく何か考えていた。
「それさ」
「うん」
「ヘルツの話が本当だとして、岸くんのときの逆ってこと?」
佐和は岸くんのことを知っている。知っているから今その名前を出せる。
「……逆、かもしれない」
「条件とか状態に関係なく、周波数がずっと合ってるってこと?」
「合ってるっていうか、どの状態の私にも届く帯域にいるっていうか」
「えー。それって結構すごいことじゃない?」
「どうだろう。すごいことなのか、単にそういう声質なのか、私の耳が勝手にそう受け取ってるだけなのかもわかんない」
「でもさ、体調悪いときに時田さんの声が無理だったって話と合わせると」
「うん」
「弱ってるときにも届くってことは、たぶんそれ結構まんなかにいるよ。可聴域の」
「……かもしれない」
「論文でもかいとく?ヘルツと推しの相関について」
「査読通らないでしょ、n=1じゃ」
佐和がまたアイスコーヒーを一口飲んで、氷がからんと鳴った。
「まあ推しの理由としては面白いわ。Hz」
「仮説だけどね」
「仮説でいいんじゃない?好きに理由がわかんないほうが健全でしょ」
それはそうかもしれない。
でも、と思う。好きに理由がわからないのは健全かもしれないけれど、届かなくなったことに理由がわからないのはしんどかった。岸くんと別れたあと、ずいぶん長いこと考えた。何が変わったのか。どこで間違えたのか。そういうふうに考えていた頃の私は、まだ「ヘルツ」という言葉を持っていなかった。
名前をつけたら楽になるわけではない。仮説は仮説だ。でも、名前がないとそもそも輪郭が見えなくて、見えないものには手の打ちようがない。
少なくとも今は、鹿野くんの声がなぜ届くのかはわからないけれど、届いているという感覚だけは疑っていない。それだけで今のところは充分じゃないかと思う。
「次のシングルいつだっけ」
「来月。十四日」
「聴いたらさ、私にもHz届くか試してみるわ」
「他人のHzに合うかどうかは本人の帯域次第だから、たぶん無理だと思う」
「仮説なのに急に断定するじゃん」
笑った。たぶん佐和も笑っている。
スマホを取り出して、一曲だけ、鹿野くんのパートがよく聴こえるやつを探す。イヤホンの片方を佐和に渡す。佐和が耳に入れる。再生ボタンを押す。
声が流れる。
佐和にどう届くかはわからない。でも私の可聴域にはいつも通り、過不足なく、まんなかに落ちてきた。