一列目のほぼセンターだった。
チケットを三回確認した。発券したとき、電車の中、劇場の前。三回とも同じ席番が印字されている。見間違いじゃない。
客演を観に来ただけの自分がこの席にいていいのだろうか。この劇場に毎公演通っている人たちが欲しかった場所のはずだ。申し訳ない。でもうれしい。席に着く頃にはうれしさのほうが勝っていた。最前列の椅子は思ったより低くて、舞台の床面が目線のすぐ上にある。こんな近くで観られるのか。
匂いが来たのは、開演十五分くらい前だった。
隣に、誰かが座った。
座った瞬間に空気が変わった。香水だ。甘さの奥に木の匂いが重なった、はっきりと主張のある香り。量が多い。三席先まで届きそうな濃さだった。
鼻の奥がすぐに詰まったようになって、こめかみの辺りがじんと重くなった。
隣の人は黒い服を着ていた。それだけは視界の端で見えた。年齢はわからない。顔もちゃんと見ていない。匂いのほうが先に来たから、その人の印象は嗅覚だけで出来上がっている。
座ったあと、隣の人はほとんど動かなかった。スマホも出さない。パンフレットも開かない。まっすぐ前を向いて、ただ座っている。
「千明」
声がして顔を上げると、五席ほど先から杏が手を振っていた。こっちに来る。
「え、千明も最前?」
「うん、取れちゃった」
杏が笑った。「いいじゃん」
杏がいつも来ている劇場だ。杏がここにいるのは当然で、私のほうがお邪魔している側になる。でも知っている顔があるとそれだけで少しほっとする。
開演のアナウンスが流れた。
「あ、戻るね。またあとで」
杏が自分の席に戻っていく。
また匂いと二人になった。
幕が開いた。
推しが出てきた瞬間は、やっぱりうれしかった。声が直接届く距離にいる。表情の動きが全部見える。来てよかったと思った。
でも匂いがずっとある。
推しの声を聴いているのに、鼻が先に隣を拾う。集中しようとするたびに嗅覚がそっちへ引っ張られる。視覚と聴覚は舞台に向いているのに、鼻だけがとなりを向いている。身体の受信先がひとつだけずれていて、気持ちが悪かった。
隣の人は微動だにしない。
頭が痛い。それは事実だった。でも、だめとは言えない。隣の人は音を立てているわけでも光を出しているわけでもない。ただ匂いがする。ただ匂いがするだけのことを、やめてくださいとは言えなかったし、言ったところでこの場でどうにかなるものでもなかった。
カーテンコールが終わって、客電がついた。
隣の人は、拍手をやめるのが客席でいちばん遅かった。ほかの客が手を下ろしてからもまだ叩いていて、それが止まってから、静かに立ち上がって出ていった。
私はしばらく座ったままだった。頭がまだ重い。隣の人はもういないのに、匂いがまだ鼻の奥にいる。
杏が来た。
「おつかれ。どうだった」
「最前うれしかったんだけど、隣の人の香水きつくて頭痛くなった」
推しの感想より先に頭痛の報告が出てきた自分に、少しがっかりした。
杏が「あー」という顔をした。
「あの人ね。ここ来る人はだいたい知ってるよ。全通で、毎回あのへんのセンターにいる。どうやって取ってるのかは誰にもわかんないけど」
「あの匂い、毎回なの?」
杏がうなずく。
「毎回。あれね、メンカラ黒の子がつけてる香水だよ」
「そうなんだ」
推しの香水。あの匂いにそういう意味があったのか。
「たぶん、認知されたいとかあるのかな」
「なるほどわからん」
千明ならそういうと思った、と杏が少し笑った。認知されたい。私にはない発想だった。
「でも基本全通だしセンターだし、もう認知はされてるんだよね」
絶対、と杏は言った。
「だから、あれが推し活の一種なのかなあ。こっちからしたら迷惑なんだけどさ、隣に座るとほんときつくて。チケ番みて、最前だ! ってなっても、あの人が隣の可能性あるのかって思い至るとちょっと凹む」
今日やられたばかりだった。実感しかない。
「だめではないけどさ、こっちの集中を奪う権利まではないじゃん」
「ほんとそれ」
杏の視線がロビーの入口に動いた。チケットのやりとりをする相手が来たらしい。杏はもちろんソワレがある。この劇場がホームの人間は、一日をここで過ごす。
「じゃあね、ソワレ楽しんで」
「うん。またね」
杏が手を上げて歩いていった。
劇場を出て、駅に向かう。
推しの芝居を思い出そうとした。あの場面がよかった、あの台詞の間が好きだった。ちゃんと覚えている。けれど。思い出すたびに、匂いがついてくる。
推しが舞台に立っている記憶に、あの香水が貼りついている。剥がれない。記憶は匂いに紐づくというけれど、今日の推しの記憶には黒の子の香水が混ざっていて、どこの誰かも知らないあの人の気配まで一緒にくっついている。
名前も知らない。顔もちゃんと見ていない。ただ隣に座って、匂いがして、微動だにしなくて、拍手を最後までやめなかった人。推しと同じ匂いを纏うことにどんな意味があるのか、私にはわからない。
わからないのに、記憶の中にいる。推しのとなりに、あの人がいる。
へんなの、と思った。
電車に乗る。こめかみにまだ鈍い重さが残っている。鼻の奥にはかすかに、あの甘くて重い匂いがある。劇場を出てもう何分も経っているのに消えない。あの人の匂いなのか、もう自分の記憶の匂いなのか、わからなくなっていた。