開演四十五分前のドトールには、すでに戦場の気配が漂っている。
水澤瑞希は、向かいに座った友人の胸元を見て眉をひそめた。
「ねえ真帆。それ何色のつもり」
「え? 赤」
「……どこが?」
テーブルに身を乗り出す。真帆の着ているニットは、赤と言い張るにはあまりにも朱色に寄っていた。というか柿の色だ。干し柿ですらない、生の柿。
「赤だって。赤系だって」
「系でごまかすな。暁くんの色はもっと、こう、深いやつでしょ。ボルドーまでいかないけど、クリムゾンっていうか」
「クリムゾンとか言われてもわかんない」
真帆はアイスココアのストローを噛みながら、スマホでカラーチャートを出した。画面の明るさが最大になっているせいで、赤の見本がどれも蛍光色に見える。比較として成立していない。
「ていうかさあ」
遅れてきた小暮杏が、ドトールの狭い椅子にトートバッグごと体をねじ込みながら言った。杏は今日もネイビーのMA-1にダークグレーのカットソーという、彩度という概念を拒否したような格好をしている。
「原色合わせるの、もう物理的にむずくない? 推しがブルー担だったらまだいけるけど、赤って顔色に来るよね、ダイレクトに」
「来る」瑞希が深く頷いた。「私マジで顔死ぬ。赤とかビビッドな色トップスに持ってくるとゾンビになる」
「瑞希はいいじゃん、海斗の水色でしょ。パステル似合うんだから余裕でしょ」
真帆が恨めしそうに言った。瑞希は曖昧に笑って、手首を差し出す。細い革紐のブレスレットに、小さなアクアマリンのビーズがひとつ。
杏が五秒ほど沈黙した。
「……これ言われないと誰も気づかないやつじゃない?」
「気づかなくていいの。私が知ってればいいの。推し活は自己満」
「いや、似合うんだから着ればよくない? 水色のブラウスとか絶対映えるのに」
真帆の声には、似合わない側の切実さが滲んでいた。似合うのにやらない人間を前にすると、努力が報われない者の感情は行き場を失う。
「なんか気恥ずかしいんだよね。フルで合わせるの」
「気恥ずかしい。気恥ずかしいって。こっちはくすみしか勝たんの民なのに」
「杏は?」瑞希が話を振った。「はるたんのピンク、どうしてんの」
杏がMA-1の袖を引っ張りながら、困ったような顔をした。
「どうもしてない」
「してないって」
「パステルピンクだよ? 私に着ろと?」
杏は自分の全身を見下ろした。ネイビー、ダークグレー、黒のスニーカー。一点の曇りもなく暗い。
「この人間にパステルピンクを着せたらどうなるか想像してみて。顔だけ浮く。首から下が消える。もしくは借り物の服着た葬式帰りになる」
「いや言い方」
「事実だから。ダーク冬にパステルは殺傷能力がある」
真帆がストローから口を離して、思い出したように言った。
「あ、私この前パーソナルカラー診断行ってきた」
杏と瑞希が同時に動きを止める。推し活女子にとってパーソナルカラー診断とは、占いでも美容情報でもなく、ひとつの宣告である。
「……どうだった」
「イエベ秋のミュート」
「おー、くすみカラーの覇者じゃん。秋冬のコスメ全部似合うやつ」
「コスメはね。コスメはいいの」
真帆がスマホを伏せた。その動作に妙な重力があった。
「暁くんの赤、完全にブルベ向きだって。鮮やかなクール系の赤だから、イエベ秋のミュートが着ると顔がくすむって言われた。完全に。プロに。四万払って」
「四万」
「四万」
杏がテーブルに突っ伏した。笑っているのか悲しんでいるのか判然としない震え方をしている。
「推しのために四万払って、推し色が似合わないって診断されるの、どういう体験なの」
「いやでも杏もでしょ」瑞希が静かに言った。「はるたんのパステルピンク、ダーク冬じゃ着れないでしょ」
「私は最初から知ってた。診断行く前から。鏡見たらわかる。薄い色着ると自分の顔がバグる」
「知ってたのと宣告されるのは違うんだよ」真帆が力なく言った。「プロにドレープ当てられて、赤い布が顔の横に来た瞬間、鏡の中の自分がどんどんくすんでいくの見せられるの。隣のブルベ夏の子はぱっと華やかになるのに。同じ赤で」
「それ瑞希じゃん」
「そう。瑞希みたいな子が隣で発光してた。恨んだ」
「恨まないで」
「で、テラコッタのドレープ来た瞬間に『あっこれですね!』って診断士がめちゃくちゃテンション上がるの。いやテラコッタはいいんだよ。テラコッタが似合うのは嬉しいよ。でも暁くんはテラコッタじゃないの」
「テラコッタが推し色のグループに推し変する?」
「しない。死んでもしない」
杏がようやく顔を上げた。目が潤んでいるのは笑いすぎたせいだ。
「でもさ真帆、それ逆に考えたら、自分の得意な色の中で一番暁くんに近いトーンを探せばいいんじゃない? ブリックレッドとか、テラコッタ寄りの赤とか」
「それもう赤じゃなくてレンガ色じゃん」
「レンガも赤のうち」
「建材だよ」
「私はバーガンディピンクで妥協してる」杏がぼそりと言った。
三人の目が杏に集まった。
「……え、してるの? 妥協」
「ネイルだけ。はるたんのパステルピンクは無理だけど、暗く落としたピンクならダーク冬でも事故らない。ネイルなら面積小さいし」
杏が右手を出した。短く切り揃えた爪に、深いバーガンディピンクが塗られている。
「言われないと気づかないやつじゃん」瑞希が笑った。
「瑞希のビーズと同じ。推し活は自己満」
「使い方合ってるけど悔しい」
三人はドトールを出た。五月の浅草は湿気を含んだ風が吹いていて、仲見世の方向から揚げ物と線香の匂いが混ざって流れてくる。真帆は結局、朱色のニットのまま劇場に向かっている。杏はネイビーのMA-1の袖口から、バーガンディピンクの爪がほんの少しだけ覗いている。瑞希の手首ではアクアマリンのビーズが、やはり誰にも気づかれないまま揺れている。
三人とも、推しの色をそのままは着られない。着られないなりの落としどころを、それぞれのやり方で見つけている。似合わないと知っていても朱色のニットを着る子と、似合うのにビーズひとつで済ませる子と、暗く変換して爪の先に忍ばせる子。正解はたぶんどこにもないし、そもそも正解を求めてやっていない。
開場のアナウンスが聞こえた。三人は古い劇場の小さな入口に吸い込まれていった。