八日目。タルスが修正案を出した。
前文に一行が加わっていた。「灰晶の原産地がエネルギー種族の母星であることを確認する」。タルスはその一行をリェンカの要求通りに入れ、食む側への即時半量引き渡しと六十日以内の残量配分をそのまま残した。原産地の確認は事実の記述である。所有権の承認ではない。そう説明する準備が、タルスの表情に読み取れた。
わたしは修正案の全文を二言語に訳した。右手の震えは昨日ほどではなかったが、長い文を書くと指先が鈍くなった。鈍いという感覚が正しいかどうかもわからなかった。感覚そのものが曖昧になりつつあった。
リェンカが案文を読み、うなずいた。予定通りだった。彼女はタルスと目を合わせなかった。共謀の気配を出さないようにしているのか、もともとそういう性格なのか。
ガラルが案文を読んだ。
わたしは彼の目の動きを見ていた。案文の冒頭から順に読み進め、前文の一行で目が止まった。二秒ほど止まって、先に進んだ。全文を読み終え、最初に戻り、前文の一行をもう一度読んだ。
「原産地の確認」とガラルは云った。
「はい」とタルスは云った。「事実の記述です」
「事実の記述が、なぜこの案に必要なのですか」
タルスの喉が微かに動いた。
「配分の正当性を担保するために、灰晶の出自を明記することが有用だと判断しました」
「有用。誰にとって有用ですか」
リェンカが口を開いた。
「全員にとって有用だ。原産地を確認することで、配分が恣意的ではなく事実に基づいていることを示せる」
ガラルがリェンカを見た。それからタルスを見た。そしてわたしを見た。
わたしは目を伏せなかった。視線を受け止めた。ガラルの目のなかに、気づきがあった。前文の一行がどこから来たのか。リェンカが即座に擁護したことの意味。タルスの喉の動き。ガラルは頭の良い人間だった。いや、人間ではない。だが知性というものの形は種族を超えて似ている。情報の断片をつなぎ、隠された構造を読む力。ガラルはそれを持っていた。
「設計者」とガラルは云った。「あなたはわたしたちの仲介者だ。双方の。あなたが一方と事前に協議し、その成果を全体に提出するのは、仲介者の職分ですか」
空気が凍った。
タルスの顔色が変わった。赤くなったのではなく、白くなった。仲介星の住人の肌は灰色がかっているが、血の気が引くと白が浮き出る。タルスの頬と額が白くなっていた。
「事前協議は行っていません」
「では、この一行はあなたの独自の判断ですか」
「はい」
嘘だった。わたしはそれを知っていた。タルスがわたしに話したからだ。リェンカが休憩中に持ちかけたと。だがわたしは何も言わなかった。通訳は証人ではない。目撃したことを証言する義務はない。義務がないというのは、してはいけないという意味ではない。だが、していいという意味でもなかった。
ガラルはタルスの嘘を見抜いていた。それでも追及を止めた。なぜだろうとわたしは考えた。証拠がないからか。いや、そうではない。ガラルが追及を止めたのは、追及しても配分が早まらないからだ。設計者を追い詰めて嘘を暴いても、灰晶は一粒も動かない。彼が欲しいのは真実ではなく食糧だった。
「仲介者のくせに向こうの味方をした」
ガラルはそう云った。静かに。
タルスが最も恐れていた言葉だった。わたしはそれを知っていた。設計者として、中立者として、最も言われたくない言葉。片方の味方をしたという告発。タルスの手が震えた。右手ではなく両手だった。
「味方はしていません」
「では敵でもないと」
「どちらの敵でもありません」
「どちらの味方でもなく、どちらの敵でもない。それは、どこにもいないということではありませんか」
タルスは答えなかった。
リェンカが立ち上がった。
「この議論は生産的ではない。修正案の内容に戻りたい」
「戻れない」とガラルは云った。「信頼の問題だ。設計者がどちらかに傾いているなら、その設計は公正ではない」
「では別の設計者を立てるのか。何日かかる。その間にあなたの民はさらに飢える」
ガラルの肌が赤くなった。リェンカの指摘は正しかった。時間がなかった。設計者を替えれば交渉は振り出しに戻る。振り出しに戻れば、食む者たちの備蓄はさらに減る。ガラルには追及を続ける余裕がなかった。正義を求める時間がなかった。
長い沈黙があった。
タルスが口を開いた。声が掠れていた。
「前文の一行は削除します」
リェンカがタルスを見た。
「削除する必要はない」
「削除します。わたしの判断で入れ、わたしの判断で外します。この案は最初から書き直します」
九日目。タルスは朝から会議室にいた。昨夜も寝ていないのだろう。机の上に新しい案が広げられていたが、前の案と決定的に違うものがあった。
前文はなかった。原産地の記述も、所有権への言及もなかった。配分比率は食む側五十五、エネルギー側三十五、仲介星の保管管理費として十。即時に全量を引き渡す。段階分けもなかった。
タルスが案を読み上げた。声は落ち着いていたが、落ち着きのなかに決意があった。
「この比率は不公平です」
三者が同時にタルスを見た。設計者自身が不公平だと宣言している。
「食む側に多く配分しています。理由は、飢餓の緊急性です。エネルギー側に少なく配分しています。理由は、産出元としての将来の供給能力です。仲介星の取り分は保管コストの実費のみです。この比率に合理的な根拠はありますが、公平かどうかは別です。公平の定義が双方で異なる以上、どちらから見ても公平な案は存在しません。これは設計の欠陥ではなく、構造です」
タルスは一度息を吸った。
「この案は、双方にとって不満が残ります。完璧ではありません。しかし、わたしにはこれ以上の公平を設計する能力がありません。これが、わたしの設計の限界です」
会議室が静まった。
ガラルが口を開いた。
「五十五。即時に」
「はい」
「期限なしに」
「はい。合意が成立した日に全量を引き渡します」
ガラルは数秒間黙っていた。それから云った。
「呑みます」
リェンカが目を閉じた。三十五パーセント。産出元である自分たちの母星の鉱物を、半分以下しか受け取れない。所有権の承認もない。前文に一行を入れるという約束も反故にされた。
「三十五では足りない」とリェンカは云った。だがその声には、交渉の初日にあった硬さがなかった。疲弊していた。八日間の交渉で、全員が疲弊していた。
「足りません」とタルスは認めた。「ですが、あなた方には産出元がある。新規採掘で補填することが可能です。食む側にはその選択肢がない」
「産出元があるから少なくていいという論理を認めれば、今後も永遠にそう言われる」
「永遠ではありません。この配分は今回限りのものです。次の配分交渉では、改めて比率を協議します」
「次の交渉がいつになるか、誰にもわからない」
「わかりません。ですが、今回の交渉を成立させなければ、次の交渉自体が存在しなくなります」
リェンカは長い時間黙っていた。わたしは彼女の顔を見ていた。リェンカの青白い肌が、蛍光灯の下でさらに白く見えた。体温の高い種族が、冷えているように見えた。
「条件がある」とリェンカは云った。「次の配分交渉の開催を、五年以内とすること。条約の付帯条項として明記すること」
タルスがガラルを見た。ガラルはうなずいた。
「明記します」とタルスは云った。
合意が成立した。
署名は翌日の午前に行われた。十日目。三者が案文に署名し、通訳であるわたしが翻訳の正確性を証明する署名を添えた。わたしの署名の文字は、右手の不調のために少し歪んでいた。公式文書に残る歪み。誰も指摘しなかった。
署名のあと、タルスが技術官に連絡し、保管施設での引き渡し作業が手配された。灰晶の総量を計量し、比率に基づいて分割し、食む側とエネルギー側の輸送船にそれぞれ積み込む。作業には数日かかると技術官が言った。
わたしの仕事は署名をもって完了した。通訳はもう必要ない。引き渡し作業は仲介星の技術官が行い、立ち会いには通訳は不要だった。
会議室で荷物をまとめていると、タルスが入ってきた。
「通訳さん」
わたしは手を止めた。
「ありがとうございました」
「仕事です」
「仕事です。ですが、あなたがいなければ成立しなかった」
「通訳が別の者でも同じです。言葉を訳すだけですから」
タルスは少し笑った。笑いというより、疲労の表情が崩れた結果、笑顔に見えたという方が正確だった。
「言葉を訳すだけではなかったと、わたしは思っています」
わたしは何も答えなかった。タルスはわたしが意見を述べたことを覚えている。「事実の記述と所有権の承認の境界は、読む者によって異なります」。あの一言が、タルスの判断に影響を与えたのかもしれない。あるいは与えなかったのかもしれない。わたしにはわからなかった。わかる必要もなかった。
「おひとつ、訊いてもいいですか」
タルスがわたしを見た。
「あなたが設計した仕組みで、わたしの被曝量は想定に入っていましたか」
タルスの表情が止まった。笑顔が消え、疲労の顔が消え、何の表情もない顔になった。設計者の顔ではなく、初めて会ったときの官僚の顔でもなく、ただ人がそこに立っているだけの顔だった。
「入っていませんでした」
「そうですか」
「考えが及ばなかった。申し訳ない」
わたしはうなずいた。怒りはなかった。怒りが適切な感情なのかどうかもわからなかった。タルスが悪いのか。タルスは設計を命じられた官僚であって、通訳の健康を管理する義務はなかった。交渉の場に灰晶のサンプルを置いたのは彼の判断だったが、保管施設を視察しようと言ったのも彼だった。どちらも交渉を進めるために合理的な判断だった。その合理性の外に、わたしの体があった。
「配分比率には通訳の被曝補償は含まれていますか」
タルスは黙った。含まれていなかった。配分は食む側とエネルギー側に分けるものであり、通訳の種族は当事者ではなかった。わたしたちは鉱物に利害を持たない。毒であるがゆえに利害がない。利害がないから中立でいられる。中立でいられるから通訳を務められる。その循環のなかに、被曝という事実は入る場所がなかった。
「含まれていません」とタルスは云った。
「知っています」
わたしは鞄を持って立ち上がった。右足が少しだけ重かった。視察の日から続いている重さだった。
「設計者。あなたは自分を、配分する者だと思っていますか」
タルスは首を傾げた。
「配分を押しつけられた者だと、今は思っています」
「そうですか。わたしも通訳を押しつけられた者です。わたしたちは似ていますね」
タルスは何か言おうとしたが、言わなかった。
わたしは会議室を出た。
廊下を歩きながら、窓から外を見た。保管施設の方角に、輸送船が一隻見えた。食む側の船だろう。灰晶の積み込みが始まるのは明日以降のはずだったが、食む側は船だけ先に寄越したのだ。少しでも早く。一刻でも早く。
仲介星の空は今日も褪せた紫だった。誰のものでもない色。
港に向かって歩いた。右足の重さは変わらなかった。歩けないほどではなかった。ただ、以前とは違う体になっていた。十日前にこの星に降りたときの体と、今の体は同じではなかった。何かが減っていた。減ったものが何なのか、正確には名付けられなかった。体力かもしれないし、もっと基本的な何かかもしれなかった。
空港の待合室で座っていると、窓越しに会議棟が見えた。低い建物。装飾のない壁。その向こうに保管施設の四階建てが見える。あの建物のなかの灰晶が、これから減っていく。食む側に五十五パーセント、エネルギー側に三十五パーセント、仲介星に十パーセント。計量され、分割され、積み込まれ、この星から出ていく。
タルスは今、何をしているだろうか。引き渡しの準備に追われているのだろうか。それとも、空になりつつある保管施設を見ているのだろうか。灰晶がなくなれば、仲介星は仲介する物を失う。配分すべき物がなくなれば、配分者は用済みになる。
タルスが恐れていたのは、味方をしたと言われることだった。だが本当に恐ろしいのはその先だったのではないか。配分が終わり、灰晶がなくなり、誰にも必要とされなくなること。中立であることは安全だと思っていた。どちらにも属さないことは、どちらからも攻撃されないことだと。だがそれは違った。どちらにも属さないということは、終わったあとにどちらにも引き取ってもらえないということだった。
わたしもまた、どちらにも属していなかった。食む側でも燃やす側でも仲介星の側でもなかった。通訳。言葉を運ぶだけの存在。交渉が終われば帰る。帰って、以前の生活に戻る。ただし、以前と同じ体ではなく。
搭乗案内が流れた。わたしは立ち上がった。
右足が重い。右手が冷たい。喉の奥にかすかな引っかかりが残っている。これらが一時的なものなのか恒久的なものなのか、まだわからなかった。わかるのは時間が経ってからだ。経ってからでは遅いかもしれないが、通訳には急ぐ権限がない。急ぐことは中立ではないからだ。
仲介星の空を最後に見上げた。褪せた紫。この色を嫌いではなかったと、改めて思った。
わたしは搭乗口へ歩いた。一歩ごとに右足がわずかに遅れた。目に見えないほどの差。誰にも気づかれない程度の損傷。
中立の代価はいつもそのようにして払われる。誰にも見えない場所で、少しずつ、取り返しのつかない形で。