2026.06.09

招集

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完結

4,805文字 約8分

仲介星の空は、誰のものでもない色をしていた。

褪せた紫のような、灰にわずかな熱を残したような色。どこかの星の夕暮れに似ているが、どこの星でもない。降り立ったのは三度目だったが、前の二度が何年前だったか、すぐには思い出せなかった。一度目は停戦条約の文言確認。二度目は保管施設の竣工式典。いずれも儀礼的な仕事で、通訳として座りはしたが訳すべき言葉はほとんどなかった。署名と握手と沈黙。それだけの星だった。

今回は違う。

集通知には「配分交渉の開催に伴い、正式通訳の出席を要請する」と書かれていた。配分交渉。その四文字を読んだとき、わたしの体はかすかに強張った。交渉が開かれるということは、灰晶がこの星のどこかに、大量に積まれたまま存在しているということだ。

灰晶。

食む者たちにとっては食糧、燃やす者たちにとっては燃料、わたしたちの種にとっては毒。同じ結晶体に三通りの定義がある。通訳という仕事はそもそも、ひとつの言葉に複数の意味が宿ることを前提にしている。だがこれは言葉の問題ではなかった。物質の問題だ。わたしの身体に入れば壊れる。それだけのことだった。

港から会議棟までは歩いて二十分ほどだった。仲介星は小さい。星というより岩塊と呼んだほうが正確で、大気は薄く人工的に循環されており、空に雲はない。建物はどれも低く、装飾がなく、色がない。派手にする理由がないのだろう。この星に観光客は来ない。

会議棟の入口で身分証を示した。受付の職員はわたしの種族を見て、少し目を見開いた。それから招集通知の番号を端末に打ち込み、第三会議室と言った。三階ではなく三号室ですと付け加えた。この棟は平屋だった。

廊下は長く、足音がよく響いた。壁に掲げられた額縁のなかに停戦条約の写しがあった。立ち止まって読むほどの余裕はなかったが、通りすがりにひとつだけ目に入った文言があった。

「条件が整うまで保留する」

何の条件かは書かれていない。わたしはこの文を過去に二度訳している。食む者たちの言語にも、燃やす者たちの言語にも訳した。どちらの訳にも「条件」という語を入れた。だが条件の中身を訊かれたことはなかった。誰もが知っている前提だと思っていたのかもしれない。あるいは、誰も知らないことに気づいていなかったのかもしれない。

第三会議室の扉は開いていた。

なかに一人、すでに席についている者がいた。仲介星の役人だった。年齢はわたしには読みにくいが、若くはない。この星の住人は全般に顔立ちが穏やかで、特徴を拾いにくい。灰色がかった肌。短く刈り込まれた毛髪。制服は濃紺で、胸に小さな紋章があった。紋章の意味は知らない。聞いたこともない。

彼はわたしを見て立ち上がった。

「通訳の方ですね。設計者のタルスです」

設計者。聞いていない肩書だった。招集通知には会議の進行を仲介星が務めるとだけ書かれていた。

「配分の仕組みを設計する役を仰せつかりました。三日前です」

三日前。交渉の開催が決まってから、配分の設計者が任命されるまでに要した時間。わたしは椅子に座りながら、その短さの意味を考えた。準備が足りないのか。それとも、誰もやりたがらなかったのか。

タルスは手元に条約の原文を広げていた。わたしが廊下で目にしたのと同じ文書だ。

「条約を読み返していたのですが」と彼は云った。「凍結という言葉がどこにもない」

「保留、です」

「ええ。保留する、と書いてある。凍結したとは誰も言っていない。でも全員が凍結だと思っている。食む側も、燃やす側も、うちの政府も」

彼は条文の一節を指で示した。「条件が整うまで保留する」。わたしが廊下で見た文言と同じだった。

「条件の定義が存在しないんです」

「知っています」

「ご存じでしたか」

「訳しましたから。二度」

タルスは少し黙った。それから小さくうなずいた。その沈黙のなかに、安堵ではなく不安があるのが見えた。条件がないことを知っている人間が他にもいる。だがそれは、誰かが条件を知っているということではない。

「食む側の備蓄が臨界を割ったそうです」とタルスは云った。「具体的な数値は向こうの代表が持ってきます。うちが把握しているのは、あと数か月で備蓄がゼロになるという試算だけです」

「だから交渉が開かれた」

「正確には、食む側が開けと言った。拒否する理由がうちにはない。保留の条件を決めたのがうちだと思われている以上、出し渋っていると見なされている以上、座らなければもっと悪い」

もっと悪い。わたしにはその含みが聞こえた。もっと悪いとは、戦争が再び始まるということだ。

仲介星が戦争を止めたわけではない。停戦条約を起草したのも、署名したのも当事者同士だ。仲介星は預かり場所として名指されただけだった。弱小で、怒らせても実害がないから選ばれた。中立だったからではない。あるいはそれが、この星にとっての中立の意味だったのかもしれない。怒られても壊れない程度に小さいこと。

食む者たちの代表が到着したのは、予定時刻のちょうど十分前だった。

彼の名はガラルといった。小柄で、肌は赤みがかった褐色をしていた。食む者たちは全般にそういう色をしている。灰晶を長年摂取してきた種族の体内に結晶成分が沈着し、肌の下にうっすらと鉱物の気配が宿る。ガラルの目は大きく、よく動いた。会議室に入った瞬間、部屋の四隅を見回し、窓の有無を確認し、机の上の書類に視線を走らせた。それから座った。

「返却の日程を決めに来た」

彼の第一声だった。

わたしはそれを仲介星の言語に訳した。ガラルの言語で「返却」にあたる語は、もともと「取り戻す」に近い意味を持つ。手元にあったものが不当に離れた場所にある。それを元に戻す行為。だが仲介星の言語には「返却」しかない。渡されたものを返す。そこにはもとの所有者がいて、借りた者がいるという構造がある。ガラルの言語にはその構造がない。あるのは、正しい場所と不当な場所の区別だけだ。

わたしはどちらの意味も伝えないまま、「返却」とだけ訳した。通訳はそうするものだ。ずれを自分の判断で埋めない。ずれたまま渡す。

燃やす者たちの代表が来たのは、予定時刻を五分過ぎてからだった。

名はリェンカ。長身で、肌は青白く、仲介星の蛍光灯の下ではほとんど光って見えた。燃やす者たちのエネルギー代謝は体表面からの放熱に依存しており、皮膚の色が薄いのはそのためだった。冷えた金属のような印象を与えるが、実際の体温はこの部屋の誰よりも高い。

リェンカは着席するなり、ガラルの言葉を待たずに口を開いた。

「返却ではない。配分の再開だ」

ガラルが顔を上げた。

わたしはリェンカの発言を食む者たちの言語に訳した。リェンカの言語で「配分」にあたる語は、「分け与える」ではなく「配置する」に近い。資源をしかるべき場所に置く行為。所有権がまず存在し、その上で配置の判断がある。返却という概念とは出発点が違う。

ガラルが訳を聞き終えるまでの数秒、部屋は静かだった。ガラルの目がリェンカの顔からわたしの顔へ移った。わたしの訳が間違っていないか確かめるような視線だった。わたしは表情を変えなかった。

「産出元はあなた方の星です」とタルスが云った。慎重に、どちらにも寄らない言い方を選んでいるのが聞き取れた。「そして保管されているのはこの星です。今日はまず、現状の確認から始めたいと思います」

ガラルがすぐに応じた。

「現状は明白です。わたしたちの食糧がこの星に積まれたまま何世代も放置されている。それが現状です」

リェンカが首を横に振った。

「放置ではない。保留だ。条約に基づく保留であり、その条約にはあなた方も署名した」

「署名したのは先々代の政府です」

「ならば条約を破棄すると言うのか」

「破棄ではなく、履行を求めている。保留の条件が整ったのだから」

「条件とは何だ」

ガラルが答えた。

「わたしたちが飢えている。これ以上の条件がありますか」

沈黙が落ちた。

タルスがペンを握ったまま動かなかった。彼は発言を記録しようとしていたのだが、何を書けばいいのかわからないという顔をしていた。議事録の書き出しがすでに破綻している。返却か、配分か。保留か、凍結か。放置か、履行待ちか。同じ事態を指す言葉がひとつも噛み合わない。

わたしは四者の顔を順に見た。ガラルの表情には怒りがあった。正確には、怒りの手前にある焦燥だった。飢餓は今起きている。彼にとってこの会議は交渉ではない。受け取りの手続きだ。日程を決めて、持ち帰る。それだけのことだと思って来ている。

リェンカの表情には怒りとは別のものがあった。屈辱に近い何かだった。自分たちの母星で産出された鉱物が、停戦の条件として取り上げられ、他人の星に積まれている。それを「返却」と呼ばれることの意味。自分たちの所有物が、いつの間にか返すべきものに変わっている。

タルスの表情には、何もなかった。正確には、何も出さないようにしていた。どちらにも寄らない。どちらも怒らせない。どちらの顔色も読んで、自分の顔色は消す。それが仲介者の仕事だと思っているのだろう。あるいは、三日前に命じられたばかりの仕事を、どこから手をつけていいかわからないだけかもしれない。

わたしは自分の立場を確認した。通訳。言葉を運ぶだけの存在。意見はない。判断もしない。どちらにも属さず、どちらの利益にも関わらない。

灰晶がこの星のどこかにある。わたしの体を蝕む物質が、大量に。だがそれはわたしの中立を保証する根拠でもあった。鉱物に欲がない。欲しいと思わない。触れれば害になるだけのものに対して、分け方の好みを持ちようがない。だからこそわたしはここにいる。

第一回の会合は、現状確認の途中で時間切れになった。

現状が何であるかについてすら合意が成立しなかった。食む側の言う現状と、燃やす側の言う現状と、仲介星の認識する現状が、三つとも違っていた。唯一の共通認識は、灰晶がこの星の保管施設に存在しているという物理的事実だけだった。

散会のあと、タルスがわたしのそばに来た。

「明日もお願いします」

「ええ」

「訊いてもいいですか。通訳として、今日の会合をどう見ましたか」

「通訳は見ません」

 タルスは一瞬、傷ついた顔をした。それからすぐに取り繕った。

「そうですね。失礼しました」

彼が去ったあと、わたしは空の会議室にしばらく座っていた。テーブルの上に条約の原文が置きっぱなしになっていた。「条件が整うまで保留する」。その一行が目に入った。

条件は存在しない。存在しないものが整うことはない。だから凍結は永遠に続くはずだった。それが破られたのは、条件が整ったからではない。食む者たちが飢え始めたからだ。切迫が条件を上書きした。

だが上書きされたのは条件だけだ。構造は何も変わっていない。同じ鉱物を、食糧だと言う者と燃料だと言う者が、それぞれの正しさを持って奪い合う。その間に立つ者がふたりいて、ひとりは設計を命じられ、ひとりは言葉を運ばされている。

窓の外に仲介星の空が見えた。誰のものでもない色。わたしはその色が嫌いではなかった。どこにも属さないという点で、わたしたちは似ていた。

星間通訳録 シリーズの他の作品

  1. 第二章 設計
  2. 第三章 視察
  3. 第四章 決裂と密約
  4. 第五章 配分者

番外編

  1. 5anc+10n