2026.06.09

決裂と密約

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完結

4,794文字 約8分

 六日目の朝、タルスが第二案を持ってきた。

 前の案とは構造が違っていた。比率配分ではなく、段階的引き渡しの案だった。まず灰晶の半量を食む側に即時引き渡す。残りの半量について、六十日以内にエネルギー側との配分比率を決定し、合意に基づいて引き渡す。半量の即時引き渡しにあたっては、エネルギー側の母星における新規採掘量から同量を仲介星に補填する取り決めを付す。

 つまり、食む側にはすぐに半分を渡し、エネルギー側には将来の補填で穴を埋める。急場を凌ぎつつ、所有権の問題を先送りにする案だった。

 タルスが読み上げるのを聞きながら、わたしは彼の顔を見ていた。二日前の視察のあとからタルスの顔つきが変わっていた。紙の上の設計者ではなくなっていた。あの灰晶の山を見て、比率の計算では解決しないと悟ったのだろう。第二案は計算ではなく交渉だった。数字ではなく、時間を使って問題を分割する案だった。

 悪くない設計だとわたしは思った。思っただけで口には出さなかった。

 ガラルは半量の即時引き渡しを呑んだ。

「半量では足りない。だが即時ならば受け入れる。残りの交渉は並行して続ける」

 彼の声にはここ数日で初めて、合意に近い温度があった。全量ではないが、半量が今日渡される。飢えている者にとって、今日の半分は明日の全部より重い。

 リェンカが首を横に振った。

「半量を無条件で食む側に渡すことは認められない」

 タルスが答えた。

「無条件ではありません。補填の取り決めがあります。食む側に渡した分と同量を、エネルギー側の母星から新規に採掘し」

「聞いている。だがその補填はいつ届くのか」

「六十日以内に」

「六十日。その六十日のあいだ、わたしたちは半量を失った状態で過ごすことになる。しかもその半量は所有権の確認なしに食む側に渡される。所有者の了解なく財産を他者に渡すのは、配分ではなく没収だ」

 ガラルが身を乗り出した。

「没収だと。あなた方が掘って預けたものを返すだけだ」

「預けたのではない。条約で取り上げられたのだ」

「では返してもらう筋合いはこちらにこそある」

「筋合いの話ではない。手続きの話だ。所有権を認めないまま引き渡しを始めれば、前例になる。次はもっと取られる」

 リェンカの声は冷静だったが、その冷静さには計算があった。彼女は食む側の飢餓を軽視しているわけではないとわたしは思った。だが、彼女の背後にも種族がいる。母星に帰れば、なぜ所有権を認めさせなかったのかと問われる。代表とは、自分の意志で座っているのではなく、種族の総意に座らされている者のことだ。

 タルスの顔から色が引いた。第二案も通らない。

「所有権の一文を入れることは可能です」とタルスは云った。「ただし、その場合は食む側の合意も必要です」

「所有権を認めろということですか」とガラルが云った。「灰晶がエネルギー種族のものだと認めたうえで、分けてもらえと」

「所有権の承認は配分の前提を変えるものではありません。形式的な」

「形式的なものではない」とガラルは遮った。「食む者の側に所有権がないと認めることは、わたしたちの生存が他者の施しに依存していると認めることです。それは事実かもしれないが、条約に書くべきことではない」

 会議室が静まった。

 ガラルの言葉のなかに、初めて弱さが見えた。事実かもしれない、と彼は言った。飢えている種族に所有権はない。食べるものを持っている者に分けてもらうしかない。それは事実だ。だがその事実を文書に残すことの意味が、ガラルには耐えがたかった。

 リェンカは何も言わなかった。ガラルの弱さを衝くこともしなかった。彼女にもまた、別の弱さがあるのだとわたしは思った。所有権を認めさせたとして、その先に何があるのか。資源の正当な持ち主として認められたとしても、食む者たちが飢えている現実は変わらない。分け与えなければ戦争が再び始まる。所有権は防壁にならない。

 タルスが両手を机の上に置いた。

「休憩にしましょう」

 休憩時間は三十分の予定だった。

 ガラルは会議室を出てどこかへ行った。窓の外を歩いているのが見えた。仲介星の褪せた空の下を、小柄な体が早足で動いていた。電話をしているようだった。本国に報告しているのだろう。

 リェンカは席に残った。わたしも残った。サンプルの灰晶が机の上で蛍光灯の光を反射していた。

 リェンカがわたしを見た。

「通訳」

「はい」

「あなたの種族にとって、この鉱物は毒だと聞いている」

「はい」

「この部屋に置いてあることは問題ないのか」

「密封されています」

「保管施設はどうだった。密封されていなかった」

 わたしは少し驚いた。リェンカがわたしの体を気遣っているのか、あるいは別の目的でこの話題を持ち出したのか、判断がつかなかった。

「大丈夫です」とわたしは言った。

 リェンカはうなずいた。それ以上は訊かなかった。

 わたしの足元には、あの日からかすかな不確かさが残っていた。視察の帰路によろめいて以来、立ち上がるたびに一瞬だけ重心の位置を確かめる癖がついていた。他人にはわからないほどの動作だった。わたしにもほとんどわからなかった。ただ、以前はしていなかった動作だった。

 タルスが休憩中にどこにいたのか、わたしは知らなかった。

 だが会合が再開されてしばらくしたあと、タルスの態度に変化があった。

 午後の議論は午前の繰り返しだった。ガラルが半量の即時引き渡しを求め、リェンカが所有権の承認を求め、タルスが双方の落としどころを探る。だがタルスの探り方が変わっていた。午前中はどちらにも寄らないように注意深く言葉を選んでいたが、午後は微妙にエネルギー側に歩み寄る発言が増えていた。

「所有権の承認は、配分の正当性を高めるとも言えます」

 この発言をわたしは訳した。ガラルの表情が変わるのを見た。設計者が中立を崩したことに気づいたのだろうか。いや、この一言だけでは判断できない。タルスは設計者として双方の主張を吟味しているだけかもしれない。だがわたしの耳には、この発言のトーンがそれまでと違って聞こえた。

 散会後、そのことが明らかになった。

 わたしは会議室に残って訳文の整理をしていた。通訳の仕事には、会合中のリアルタイム通訳だけでなく、発言録の翻訳も含まれる。三言語の発言録をそれぞれ作成し、翌日の参考資料として配布する。正確さが要求される仕事で、時間がかかった。

 会議室の扉が開いて、タルスが戻ってきた。わたしが残っていることに少し驚いた顔をしたが、すぐに自分の席に座った。

「通訳さん」

「はい」

「ひとつ、聞いていただきたいことがある」

 わたしはペンを置いた。

「リェンカさんと個別に話をしました」

 わたしは何も言わなかった。

「休憩時間に彼女のほうから声をかけてきたんです。廊下で。所有権の一文を入れてくれれば全体の案を呑むと。具体的には、前文に一行、灰晶の原産地がエネルギー種族の母星であることを確認する文言を入れる。それだけで半量の即時引き渡しに同意すると」

「ガラルさんには」

「言っていません」

 わたしはタルスを見た。彼の表情には苦渋があった。密約という言葉が浮かんだが、タルスは密約をしたわけではなかった。リェンカの提案を聞いただけだ。だが聞いてしまった以上、それを使うか使わないかの判断を迫られている。

「一行入れるだけで交渉がまとまる」とタルスは云った。「原産地の確認は事実の記述であって、所有権の承認とは違います。ガラルさんも事実としては認めるはずです。食む側の星で産出されたものではないのだから」

「事実の記述と所有権の承認の境界は、読む者によって異なります」

 タルスはわたしを見た。通訳が意見を述べている。わたし自身もそのことに気づいていた。通訳は意見を持たない。持たないことが仕事だ。だが今の発言は意見だった。

「境界が曖昧だからこそ、双方が受け入れられる」とタルスは云った。

「双方が受け入れられるのではなく、双方が違う意味で読めるだけです」

「結果は同じではないですか」

 わたしは答えなかった。結果は同じではない。ガラルがいつかその一行の意味に気づいたとき、設計者が食む側を騙したと受け取るだろう。だがそれは推測であり、わたしの判断であり、通訳の職分を超えていた。

 わたしは発言録の整理に戻った。タルスはしばらく座っていたが、やがて立ち上がって出ていった。

 翌朝。七日目。

 会合の前に、ガラルがわたしのそばに来た。

「通訳。ひとつ訊きたい」

「はい」

「昨日の散会後、設計者がこの部屋に戻ってきただろう」

 わたしはガラルを見た。彼の目は鋭かった。

「あなたもいたはずだ。設計者と何を話していた」

 わたしの体が硬くなった。ガラルはタルスがリェンカと個別接触したことを知っているのか。それとも、タルスが戻ってきたことだけを知っていて、内容を探ろうとしているのか。

「わたしは発言録の整理をしていました」

「設計者は何をしていた」

「書類の確認です」

 嘘ではなかった。タルスが席に座ったことは事実だった。だが全体を伝えてはいなかった。通訳は見たものを話す義務があるのか。通訳が個別面談に同席したわけではない。タルスがわたしに話した内容は、通訳業務の範囲外だった。だが、ガラルの目はそういう区分を認めていなかった。通訳はすべてを訳す者であり、すべてを知る者であり、すべてを話す者であるべきだという視線だった。

「それだけか」

「それだけです」

 ガラルはしばらくわたしを見ていた。信じていないことがわかった。だが追及はしなかった。代わりに、少しだけ距離を置いた。今朝のガラルの椅子は、昨日より少しだけわたしから遠かった。

 七日目の会合で、わたしの体に初めてはっきりとした異変が出た。

 午前の半ば、ガラルの発言を訳している最中に、右手が震えた。ペンを持っていた手だった。震えは数秒で収まったが、書いていた文字が判読できないほど乱れた。わたしはペンを置き、左手で右手首を押さえた。

 三者とも気づかなかったと思った。ガラルは自分の発言に集中しており、リェンカは手元の資料を読んでおり、タルスは議事録を書いていた。

 だが、タルスの視線が一瞬だけわたしの手元に落ちたのを、わたしは見た。視察の帰路のよろめきを見たときと同じ目だった。何も言わない目。見ている、とだけ言っている目。

 灰晶のサンプルは今日も机の上にあった。六日間、同じ場所に置かれている。密封容器の灰晶が日々わたしに影響を与えているのか、それとも視察のときの曝露が遅延して症状を出しているのか、わたしには判断がつかなかった。医学的な知識が足りなかった。わたしの種族と灰晶の関係について詳しい医師は、この星にはいないだろう。

 右手の震えは午後には消えていた。だが右手首に残るかすかな違和感は消えなかった。温度が低い。右手だけが少し冷たかった。

 わたしは訳し続けた。

 通訳が倒れれば交渉は中断する。代わりの通訳を手配するには時間がかかる。三言語を扱える通訳は少ない。交渉が中断すれば、食む側の備蓄がさらに減る。食む者たちが飢える。交渉を続けることがわたしの仕事であり、交渉を続けるためにはわたしがここにいなければならない。

 中立であることの代価が、身体に出ている。だが急かす権限はわたしにはなかった。交渉を早く終わらせてほしいと言う権利がなかった。なぜなら、それは中立ではないからだ。早く終わらせることは、どちらかの妥協を意味する。妥協を促すことは、通訳の仕事ではない。

 わたしは座っていた。毒のそばに座って、言葉を運んでいた。

星間通訳録 シリーズの他の作品

  1. 第一章 招集
  2. 第二章 設計
  3. 第三章 視察
  4. 第五章 配分者

番外編

  1. 5anc+10n