百十二円だった。
柘植拓真がその差額に気づいたのは、月末の家計簿アプリを開いたときだった。二十七日の夕方、タクシー配車アプリで自宅から駅前のクリニックまで乗った。降りるとき、画面には千四百八十円と表示されていた。翌日届いた利用明細には、千五百九十二円と記されていた。
百十二円。缶コーヒー一本にも満たない。
拓真は別に、百十二円を返してほしいわけではなかった。なぜ増えたのかが知りたかった。迎車料金の変動か、深夜割増の端数か、それともシステムの計算ロジックに何か自分の知らないルールがあるのか。理由がわかれば納得する。次から気をつけることもできる。それだけのことだった。
アプリの「お問い合わせ」を開いた。
最初に表示されたのは、分岐式の選択画面だった。「お問い合わせの種類をお選びください」という一文の下に、六つの角丸ボタンが並んでいる。
- ルートに問題があった
- 運転手の対応に不満がある
- 車内が清潔でなかった
- 支払い金額に納得できない
- アプリの動作に不具合がある
- その他
拓真は「その他」を選ぼうとした。が、「その他」をタップすると、さらに五つの選択肢が展開された。
- 忘れ物をした
- 領収書を再発行したい
- アカウントを削除したい
- キャンペーンについて知りたい
- 上記以外
「上記以外」を選んだ。画面が一瞬白くなり、読み込みのインジケーターが回った。期待した。自由記述の入力欄が出てくるのだろうと思った。
表示されたのは、一行のテキストだった。
「ご不便をおかけし申し訳ございません。今回のご利用について、特別に15%の調整を適用いたしました。」
その下に「確認」ボタンがひとつ。
拓真は画面を見つめた。確認、の一語は疑問文ではなかった。同意を求めているのでもなかった。処理はすでに完了していて、ボタンはただ、それを閉じるためだけにあった。
翌日、アプリの残高に二百三十九円が加算されていた。千五百九十二円の15%。拓真が知りたかった百十二円の二倍以上の金額が、聞いてもいないのに振り込まれていた。
気持ちの悪さは、金額の大小ではなかった。自分の「なぜ」が、どこにも届いていないという感触だった。
対応最適化法、正式名称「顧客対応業務適正化及び従事者保護に関する法律」が施行されたのは、四年前のことだった。
きっかけは、積み重なった悲劇だった。コールセンターの従業員が、日に六十件を超える罵倒を浴び続けて精神疾患を発症する。スーパーの店員が、返品を断ったことで三時間にわたって怒鳴られ、翌日から出勤できなくなる。市役所の窓口職員が、生活保護の申請却下に激昂した男に首を絞められる。事案が全国で同時多発的に報道されたあの夏を、拓真も覚えている。
法律自体には、拓真も賛成だった。人間が直接、むき出しの怒りを受け止め続ける必要はない。テクノロジーがそれを肩代わりできるなら、すべきだと思った。実際、法施行後、対応業務従事者のメンタルヘルス関連の労災請求件数は六割以上減少した。報道は制度の成功を伝えた。
ただ、成功した制度は、成功したまま止まらなかった。
初年度、応対分類エンジンのカテゴリは百二十以上あった。「説明を求める問い合わせ」「仕様の確認」「理由の開示要求」といった項目がきちんと存在していた。それらには人間のオペレーターが対応し、回答を返す仕組みだった。
二年目、カテゴリの統廃合が始まった。運用コストの削減が理由だった。「説明を求める問い合わせ」は「情報提供要求」に統合された。「理由の開示要求」は、対応完了までの平均時間が他カテゴリの三倍を超えていたため、「不満の表明(中度)」に再分類された。
三年目、さらに圧縮が進んだ。運用ガイドラインの改訂、法改正ではなく改訂、によって、ユーザーの発話はすべて「要求強度」のスコアに変換されることになった。スコアに応じた補償が自動で実行される。問い合わせ一回なら低強度、二回で中強度、三回以上は高強度。強度が上がるほど返金率が上がる。スコアが「解決済み」の閾値を下回れば、つまり問い合わせをやめれば、対応完了として記録される。
制度が機能している、というのは本当だった。クレームの平均処理時間は九十四秒にまで短縮された。顧客満足度スコアは毎年上昇している。対応業務の離職率は過去最低を記録した。数字はすべて改善を示していた。
失われたのは、「説明」という応答の種類だけだった。
拓真はもう一度、問い合わせた。
今度は配車アプリではなく、毎月届く電気料金の明細だった。前月から契約内容を何も変えていないのに、「燃料費等調整額」の項目が百四十円ほど跳ね上がっていた。理由を知りたかった。原油価格の変動なのか、算定方式が変わったのか。納得すれば払う。それだけの話だった。
電力会社のサポートページを開いた。同じ分岐式の選択画面。同じ角丸ボタン。拓真は今度こそ正確にたどり着こうと思って、「料金について」→「請求金額について」→「明細の内訳について」と慎重に選択を重ねた。
三階層目で画面がふっと切り替わり、一行のテキストが表示された。
「ご不便をおかけし申し訳ございません。今回のご請求について、調整額相当分を次回のご請求から減額いたします。」
拓真は画面の前で、息を止めた。
聞いていない。そんなことは聞いていない。減額してほしいのではない。なぜ増えたのかを知りたいのだ。
彼は「確認」を押さずに、ブラウザを閉じた。翌日、電力会社からメールが届いた。件名は「お問い合わせ対応完了のお知らせ」。本文には「お問い合わせ番号:EL-20XX-0492817」と、その下に小さく、「分類コード:F-3a」と記されていた。
分類コード。
拓真はその文字列を検索した。対応最適化法の運用ガイドラインは、法律そのものと違って一般に公開されている。施行規則の附則、別表第二。PDFの四十三ページ目に、分類コードの一覧表があった。
F-1:不満の表明(軽度)→ 定型謝罪文の提示 F-2:不満の表明(中度)→ 一部返金(10〜15%) F-3a:不満の表明(高度・金銭関連)→ 該当金額の全額補償 F-3b:不満の表明(高度・サービス関連)→ 次回利用時の優待付与 F-4:不満の表明(継続・常習性あり)→ 専門チーム移管
表は全部で三十項目ほどあった。拓真はすべてに目を通した。ひとつずつ、指で追った。
「説明の提示」という項目も「理由の開示」という項目も、なかった。
「回答」という語を含む項目は、ひとつもなかった。
応答として定義されているのは、謝罪、補償、優待、移管。その四種だけだった。この分類体系の中に、「あなたの疑問に答える」という行為は存在しなかった。そもそも想定されていなかった。
拓真はPDFを閉じた。
「なぜ」が届かなかったのではなかった。「なぜ」を受け取る場所が、最初からどこにもなかったのだ。
翌週、拓真は買い物をした。ネット通販で購入したワイヤレスイヤホンが、商品画像と微妙に色が違った。グレーを注文したはずが、届いたものはほとんど黒に近い。使用には問題ない。返品するほどでもない。ただ、ロットによる色味の差なのか、画像の色校正がずれているのか、それとも仕様変更があったのかが気になった。
拓真は問い合わせなかった。
代わりに、イヤホンのケースを開け閉めしながら、あの別表第二のことを考えていた。自分の「なぜ」が、あの表のどこにも収まる場所を持たないこと。その事実が、百十二円の差額よりもずっと重く、腹の底に残っていた。
三日後、通販サイトから通知が届いた。
「お客様の最近のお買い物に関するご満足度をお聞かせください。」
五段階の星マークが並んでいた。一番左が「非常に不満」、一番右が「非常に満足」。
拓真はどちらも押さなかった。星は五つあったが、どれも答えではなかった。彼が言いたいのは「なぜグレーがこの色なのか」で、それは一から五のどこにも置けない種類の言葉だった。
通知を閉じた。三日後にもう一度同じ通知が届き、それも閉じた。一週間後、通知は来なくなった。
アプリの購入履歴を開くと、あのイヤホンのステータス欄にはこう記されていた。
「対応完了」
問い合わせていない。何も伝えていない。ただ黙っていただけだ。それでも記録の上では、すべて解決したことになっていた。沈黙は、このシステムのなかでは満足と区別がつかなかった。
拓真はアプリを閉じて、テーブルの上のイヤホンに目をやった。ケースの表面に、天井の照明がぼんやり映っている。黒ともグレーともつかない色が、光を返していた。
誰にも届かなかった「なぜ」が、行き場をなくしたまま、拓真のなかに残高のように積み上がっていく。使い道のない残高。引き出す窓口のない残高。
おそらくそれは、返金では補償できない種類の損失だった。だが、そのことを伝える分類コードは、まだこの世界のどこにも定義されていない。