2026.06.06

無給の通勤地獄からの解放と、素足のピラミッド

5,452文字 約9分

おれの名前は、中澤正美。二十七歳、独身。あの国民的大女優とまるっきり同じ名前を持ちながら、その実態は世田谷の四畳半に住む、どこにでもいる平凡な会社員だ。親は「正しく美しく育つように」と願ってつけたらしいが、時代がおれを追い抜いていった。塾の出席確認で名前を呼ばれるたびにクラス中が振り返り、就職してからは名刺を渡すたびに相手が0.5秒フリーズする。名を呼ばれるたびに、あの大女優の顔が相手の頭をよぎるのだろう。物心ついた頃からずっとそうだ。

その日、正美は人生で一番、「会社に行きたくない」と思っていた。

月曜日の朝だった。一週間の中で最も憂鬱な朝に、よりによって台風の襲来が重なっていた。

窓の外は、警報級の台風が猛威を振るっている。叩きつけるような雨が窓ガラスを鳴らし、建物の隙間を風が通り抜けるたびに不気味な風切り音が鳴り響いていた。テレビのニュースキャスターは、深刻な顔で「不要不急の外出は厳に控えてください」と繰り返す。

スマホを見れば、沿線の電車はすでに運転を見合わせていた。

そこへ、会社の全体メーリングリストから通達が届く。

『本日は交通機関の乱れが予想されます。無理せず、有給休暇をご利用ください』

正美はその文面を三秒見つめてから、スマホをソファに放り投げた。

有給休暇。

この一語が、おれの中の何かに触れた。

休暇というのは、本来、旅行に行くときとか、お世話になった先輩の結婚式があるときとか、前向きな理由で使うものだ。少なくとも、おれはそう思っている。天気が悪いから。体調が優れないから。そういう「受け身の理由」で消費するのは、なんというか、負けた気がする。休暇の無駄遣いだ。二十日しかない年間の有給を、台風ごときに渡してたまるか。

それに。

出社さえすれば、給料は出る。

正美はゆっくり上半身を起こした。

考えてみれば、これは悪い話ではない。上司の武部は、台風だろうとなんだろうとゴルフ接待を入れてしまう人種だ。中止になればそのまま五反田あたりのクラブへ切り替えるのがあの人の流儀で、今日も連絡はつかない。隣の机の島の先輩連中は遠方組で絶対に来ない。つまり今日のオフィスは、ほぼ無人だ。

誰もいない会社で、やってきた仕事だけ片付けて、あとはぼんやりしていればいい。上司の視線もなく、余計な雑談を求められることも、仕事をせかされることもない。台風のせいで電話もかかってこない。出掛けられもしない、突然すぎてなんの予定もない休暇を押し付けられるよりよほど得じゃないか。

……よし、行くか」

正美は立ち上がり、クローゼットから一番くたびれたスーツを引っ張り出した。どうせ濡れる。見た目を気にする必要はない。周りの人間だって、他人に構えるほど今日の台風は甘くないのだ。

湿った空気が漂う玄関で、正美は重い溜息をつき、靴べらを手に靴を履く。

足元には、昨日ホームセンターの特売コーナーで買ったばかりの玄関マットが敷いてある。茶色の硬い毛足。裏面には滑り止めの黒いラバー。中央には、いかにも安物らしいフォントで「WELCOME」と書かれている。裏面の隅に何か細かい字が刻まれているようにも見えたが、老眼でもないのに読み取れなかった。1,980円。おれの安月給に見合った、実用性一点張りの泥落としだ。

ドアに手をかけた瞬間、外から強風が縦揺れのように壁を叩いた。

傘が、役に立たない種類の雨だ。駅まで五分。それだけで頭から濡れる。ホームに着いたところで電車がいつ動くかわからない。もしかしたら、今日は結局一本も動かないまま夕方になるかもしれない。

ここまできたら意地でも、休暇は使いたくない。正美は頭の中で、静かに唱えた。「しっぽをたてろ」。やる気が底をつきかけたときの、正美なりの起動呪文だった。

五十周年を記念して全国の映画館で再上映されている、あの映画の台詞が元ネタで、本来の意味とは全然関係ない。尾てい骨のあたりを意識すると、少しだけ背筋が伸びる気がする。気のせいかもしれないが、うなだれたままよりはずっとましだ。

正美は強がりと貧乏性と、少しのアホさを燃料にドアノブに力を込めた。

「なんかもー……魔法でパッと会社ついたりしねぇかな、マジで……

靴底でマットを踏みしめながら、半分本気で、半分は諦めの冗談としてそう呟いた。途端に、視界がグニャリと歪む。カメラのレンズを無理やりねじ切ったような、不快な視覚の歪み。三半規管が数秒だけ機能しなくなり、朝食の代わりに流し込んだコーヒーが逆流しそうになる。正美は反射的にぎゅっと目を閉じた。

次の瞬間、耳元で鳴り響いていたはずの暴風雨の音が――、消えた。

代わりに聞こえてきたのは、空調の微かな動作音と、サーバーラックが吐き出す熱い空気の音。正美はおそるおそる目を開けると、

……っ、え?」

そこは、見慣れたオフィスのフロアだった。四階の、正美のデスクがある一画だ。目の前のデスクには、昨日やりかけた書類が適当にまとめられ、レターボックスの上に置いたままになっている。蛍光灯は半分しか点いておらず、薄暗い空間に正美の呼吸音だけが響いていた。

なんだこれは……。理解が追いつかず、足元がふらつく。くらりと後ろに下がった拍子に、踵が何かのへりを踏んだ。そこで初めて足元に気づく。間違いなくさっき玄関で踏んだ「WELCOME」のマットが、自宅のタイルではなくオフィスのグレーのカーペットの上に広がっていた。

…………嘘だろ」

正美は、その場で硬直した。

窓の外を見れば、激しい雨が窓を叩いているが、正美は一滴も濡れていない。スマホを取り出して時間を確認する。家を出た時間から、一分も経っていない。

「瞬間移動……したのか? おれ、今」

心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。

異常事態だ。見られてたらどう説明する? 「玄関マットに乗って飛んできました」なんて、即刻精神科送りだ。いや、下手をすれば特務機関とかいうやつに連れ去られて解剖されるのか? 変な主人公補正はいらない、と正美は思う。冒険したい願望なんて特になかった。どこでもドアがあればいいと思ったことはあれど、半月型の異次元ポケット丸ごとよこせなんて願ったこともない。

幸い、台風で電車が止まってるせいか、いや、そもそも出社時間には早すぎる時間のせいか、今のところフロアには誰もいない。誰かが来る前に、とにかくこれを人目につかない場所へ移してしまわなければならない。急いでマットを抱えて立ち上がる。

正美はデスクの隣にある資料室の鍵を、壁のキーボックスから拝借した。静かにフロアを横切り、資料室に滑り込む。どこがいいかと物色したあと、毎月の社内報が積み上がっている棚の一番下、床との隙間にマットを横向きに押し込んだ。半透明のゴミ袋を一枚かぶせ、マジックで「中澤私物」と外側に書いておいた。ゴミ袋に書く文字が「私物」でいいのかと一瞬思ったが、他に書きようがなかった。

席に戻ると、正美は少し疲れていた。一応、これでなんとかなった……、のか? 急に動きすぎて、実際やったことは大したことないのに、どっと疲れた気がする。誰もいないのをいいことに、引き出しの買い置きのカップラーメンにポットのお湯を注ぐ。まだ午前だったが、これは早めの昼食だ。三分待つ間、湯気を眺めながらぼんやりと考える。

毎日一時間、往復二時間の満員電車。

寝不足の顔を押しつぶす満員具合、スマホを弄る肘の圧迫、遅延のたびに流れる無機質なアナウンス。

あの「一円にもならない苦行」から、おれは今、解き放たれたのではないか?

その日の仕事は、もちろん一切手につかなかった。どうせ誰も来ないと踏んで出社してきたのに、今や正美の頭は仕事どころか「これからの人生」についてフル回転していた。

そういえば子供の頃、おれは「異世界転移」の小説ばかり読んでいた時期があった。主人公がある日突然別の世界に召喚されて大活躍する、あの定番の出だし。まさかその夢の原型を、二十七歳になってからホームセンターの特売品で体験することになるとは。しかも転移先が「ただの職場」という、なんとも底の浅い異世界ではあったが。

定時。普段なら残業の空気が漂うフロアだが、今日は台風の影響でそもそも人が少ない。電車が復旧したのがそもそも13時半ごろだったせいか午後休とった人も多かった。おれのような社畜根性ある人間だけが、ゆるゆると出社し、だべったりのんびり資料作成したりしていたが、タイムカードを押すやいなやこんなところに要はないとばかりに早々に引き上げていく。正美は「もう少し片付けてから帰ります」と殊勝な顔をして、最後の一人になるのを待った。

十九時。フロアから完全に人が消えた。

正美は震える手でタイムカードを押し、資料室からマットを引きずり出してフロアの中央に広げた。

「WELCOME」

その文字が、正美を天国へと誘う門に見えた。

正美は革靴のまま、マットの中央に立った。朝はこれで飛べた。理屈の上では、帰りも同じはずだ。

「家! 家に帰りたい! 四畳半のアパートの、玄関!」

歪み。

そして、暗い玄関。

鼻を突いたのは、脱ぎ捨てたままの靴の匂いと、閉め切った部屋のわずかな埃っぽさ。だが、それはおれにとって、どんな高級スパの香りよりも芳しかった。

……勝った。完全勝利だ」

正美はマットの上に膝をつき、拳を握りしめた。

帰ってから、正美は即座に計画を開始した。人の少ないオフィスで練りに練った計画だ。資料室から持ち出した鍵を手に、近所の合鍵屋まで走る。空気はまだざわついていたが、台風のピークは過ぎていた。外でマットを使うほどおれも馬鹿じゃない。五分で複製してもらい、一度帰宅してから再度会社に飛んだ。誰もいないフロアでキーボックスに鍵を戻し、そのまま家へ飛ぶ。準社畜の段取り力、なめるなよ。

それからの日々は、まさに革命だった。

朝八時半まで泥のように眠り、淹れたてのコーヒーを飲んでからマットに乗る。資料室の中に飛んだら、耳を澄ませて人がいないことを確認してからマットを棚の下に収納し、資料室を出て施鍵する。証拠隠滅。それから何事もなかった顔で自分の席に着き、始業五分前にはもうパソコンが立ち上がっている。帰りは逆プロセスだ。定時になったら、周囲の残業組がいなくなるのを見計らって資料室の鍵を開け、中に入って施鍵、マットを引き出して乗り、マットごと帰宅する。

毎日二時間の猶予が生まれるだけで、これほどまでに人間は人間らしく生きられるのか。その分、残業に回せる時間が増えて給料も上がっている。

革命から一週間。普段なら泥のように眠って終わる休日、正美はテレビを見ながらのんびり朝食をとっていた。画面には、エジプトのピラミッドが映し出されている。

ふと、玄関の方を見た。

「もしかしてこれ、会社以外もいけるんじゃね?」

正美はコーヒーカップを置き、玄関に引っ込んでマットの中央に立った。

「エジプト! 生のピラミッドが見たい!」

視界が歪む。

次の瞬間、正美の網膜を焼いたのは、暴力的なまでの黄金色の光だった。

……わあ……!」

見上げるような巨石の重なり。青すぎる空。地平線にそびえ立つ、本物のピラミッド。

――本物だ。やばい、夢なんて特になかったけど、夢がひとつかなった気分だ。

そう思った瞬間、足が動いた。近づきたかった。触りたかった。何かそういう原始的な衝動で、正美は駆け出していた。

だが、その感動は、わずかコンマ三歩で地獄へと塗り替えられた。

「あっっっっつ!! 痛てっ、熱っ!!」

正美は叫びながら跳ね上がった。

素足。おれは今、パジャマ姿で、靴も履かずに飛んできたのだ。

灼熱の砂漠の砂は、もはやフライパンの上の塩と同じだ。足裏の皮がジリジリと焼ける音が聞こえるようだった。

「ひぎぃっ! 家! 家! 帰らせて!」

正美はつま先立ちで砂漠を駆けた。赤い靴に呪われた童話の少女のように、足を地につけていられない。必死でマットの端を掴み、その中央へと飛び乗る。

砂がパジャマに入り込み、全身が熱風に煽られる。

気づけば、正美は四畳半の冷えたフローリングの上で転げ回っていた。

「熱っ……痛てぇ……

足裏を見れば、パッと赤くなっている。じんじんと熱が残っているが、ただれてはいない。

魔法の移動は一瞬だ。だが、現地の環境は、おれの足裏にも、おれの常識にも、一切の忖度をしてくれない。

正美は天井を見上げながら、保冷剤を足に当てた。

世界中どこへでも行ける「WELCOME」の文字が、おれを嘲笑っているように見えた。

これが、おれの「魔法の玄関マット」を巡る、長く、そして嵩張る冒険の始まりだった。