2026.08.25

sudo_hiroshi

4,644文字 約8分

スーツケースにユニフォームを入れた。レプリカじゃない、ちゃんとした刺繍のやつ。三年前に現地のスタジアムで買って、一度も袖を通さずにクローゼットにしまってあったのを、今回のために出した。今回のために、というか、こういう日のために取っておいた、が正しいかもしれない。四年に一度しか来ない大会の、しかも決勝だ。日本が決勝に残ること自体が奇跡みたいなもので、次はいつになるかわからない。たぶん一生に一度だと思った。

航空券は三ヶ月前に押さえた。ホテルも取った。時差があるから、日本では夜の時間帯になる。現地で観るためだけに有休を使って、金を払って、飛行機に乗る。出発は明日。前日の今日も有休を取って、昼前から荷造りをしていた。真紀は普通に出勤している。パスポートの期限を確認して、スマホの充電器を二つ入れて、観光もするかもしれないからと薄手のジャケットを畳んでいたとき、真紀から電話がかかってきた。

お父さんが、と真紀は言った。

最初、骨折でもしたのかと思った。義父は七十を過ぎていたけれど、去年の盆に顔を合わせたときは畑仕事の話をしていたし、声に張りもあった。庭で手をついて手首を折った、くらいのことを想像した。だから「大丈夫? 病院?」と聞き返した。

真紀は少し黙って、それから、亡くなった、と言った。

スーツケースの蓋が開いたまま、床に広がっていた。ユニフォームの白が目に入った。

今朝、畑に出ようとして玄関で倒れたらしい。母――真紀の母が見つけたときにはもう意識がなくて、救急車が着いた頃には心肺停止で、そのまま戻らなかった。通夜は明後日。葬儀はその翌日。真紀は今日中に発つと言った。声が湿っていた。泣いているのかもしれなかったが、電話ごしだと判然としなかった。

俺は開いたスーツケースの前に座ったまま、黙った。

何秒くらいだったのかわからない。たぶん五秒か、十秒か。最初に浮かんだのは、一日遅かったら、ということだった。明日出発だった。一日遅かったら俺はもう飛行機の中にいて、この電話は空の上で受けていた。そうなっていたら――どうなっていたかはわからない。でも少なくとも今、開いたスーツケースの前に座ってはいなかった。

行きたかった。正直に言えばそれだけだった。三ヶ月前から楽しみにしていた。四年に一度の決勝だ。行きたかった。行きたかったけど、キャンセルするしかなかった。そこまで考えたときに、十一万四千円という数字が来た。航空券の額だ。発券済み、キャンセル不可。正確には変更もできない種類の運賃で、買ったときにわかっていたはずのことが、今になって首の後ろに落ちてきた。ホテルは三泊分で、こっちはキャンセル料が二泊分かかる。合わせて十五万は消える。消えた上に、九州まで飛ぶなら新たに航空券がいる。

俺は最低だと思った。義父が死んだと聞いた直後に金の計算をしている自分のことが。

でも、順番としてはそうだった。悔しくて、諦めて、金額が来た。止めたくても数字のほうが勝手に走った。

「俺も行くよ」

と言ったのは、計算が終わったからではなく、計算し続ける自分に耐えられなかったからだ。言ってしまえば考えなくていい。言ってしまえば正しい側に立てる。真紀は「うん」とだけ言った。ありがとう、とは言わなかった。

電話を切って、スーツケースの中身を出した。ユニフォームを最初に出した。畳み直して、クローゼットの元の場所に戻した。次にパスポート。これはもう要らない。充電器は二つとも残した――九州でも使う。ジャケットを抜いて、代わりに喪服を入れた。黒いネクタイ。白いワイシャツ。数珠。靴下。黒い革靴はスーツケースに入らないから、別の袋に入れた。

中身が全部入れ替わったスーツケースは、重さがほとんど変わらなかった。同じ箱に違う旅が入っている。行き先だけが変わった。

九州行きの便を取った。真紀と同じ便はもう満席で、二時間後の便になった。四万六千円。先ほどの計算に加算される。二十万近い金が、三十分の間に形を変えた。あったはずの三日間が消えて、代わりに通夜と葬儀という二日間が入った。

空港に向かうタクシーの中で、もう一度スマホを見た。SNSのタイムラインには、決勝に向けて盛り上がる投稿が並んでいた。現地入りした人間の写真。スタジアムの外観。国旗を持った集団。俺もあそこにいるはずだった、と思って、それから、今それを思うのはやめろ、と自分に言い聞かせた。

機内では寝られなかった。隣の席の男が野球帽をかぶっていた。ロゴは見なかったが、見えそうだったので窓側を向いた。

国分家に着いたのは夜の九時過ぎだった。真紀の母が玄関で迎えてくれて、来てくれてありがとうねえと言った。目が赤かった。真紀は奥の部屋にいて、親戚の誰かと電話をしていた。喪服の襟元が少し乱れている。俺が着いたことに気づいて軽く頭を下げたが、通話は切らなかった。

通された部屋は義父の書斎だった。壁に農業関係の賞状が何枚か飾ってあった。机の上にカレンダーがあって、来週の欄に「JA」と書いてあった。来週の予定を書く人がもういないということを、その文字が静かに言っていた。

義父のことは嫌いではなかった。好きかと言われると難しいが、嫌いではなかった。年に二度、盆と正月に顔を合わせていた。今年の正月は仕事で行けなくて、去年の盆が最後になった。天気と畑と、たまに野球の話をした。義父はプロ野球を観る人で、地元のチームを応援していた。ビールを飲みながら中継を観て、贔屓の投手が打たれると唸り、抑えるとよしと言った。俺もそういうところはある。だから義父とは野球の話がいちばん通じた。他のことはあまり話さなかった。

ふと、義父なら行けと言っただろうな、と思った。決勝だぞ、そんなもん観に行け――そういう言い方をしそうな人だった。実際に言うかどうかは別として、言いそうだと俺が思っている。そしてすぐに、これは俺の願望だなと気づいた。死んだ人間に自分の都合のいい台詞を言わせている。義父はそんなことは言わない。言わないし、仮に言ったとしても、それは義父が俺を許したという意味にはならない。俺は義父の言葉が欲しいんじゃなくて、行かなくてよかったという免罪符が欲しいだけだ。

一日明けて、通夜になった。

席は知らない顔のほうが多かった。真紀の親戚はいわゆる大家族で、人の名前と関係を覚えきれなかった。結婚式のときに一度会っているはずの人たちが、黒い服を着て座っていた。俺は端のほうに座って、自分の番が来たら焼香をして、頭を下げた。

読経が始まると、やることがなくなった。手を合わせて目を閉じた。閉じた目の裏に、何が浮かぶかと思ったが、何も浮かばなかった。義父の顔は浮かぶ。去年の盆の顔だ。でもそこに感情がうまくつながらない。悲しいのかと自分に訊くと、よくわからなかった。悲しいはずだとは思う。人が死んだのだから。でも涙は出なかった。

前のほうで真紀の兄が目を閉じて微動だにしなかった。その隣の女性が鼻をすすっていた。俺は列の端のほうに座っていて、このなかで俺がいちばん故人との距離が遠いんだろうなと思った。義理の息子。年に二度会う程度の。来なくても成立する人間。

おれ、いるか?

と思った。

思ってから、またか、と自分にうんざりした。金の計算の次は存在意義の計算をしている。ここに来ること自体が目的なんだからいるかいないかじゃない、とわかっている。わかっているのに、読経を聞きながらずっと、この場にいる自分の重量を計っているような感覚が消えなかった。

読経が終わって、通夜振る舞いの席に移った。精進料理と、ビールと日本酒。酒が出ることに少し安堵した。手持ち無沙汰から解放される。隣に座った親戚のおじさんと当たり障りのない話をした。どこから来たのかと聞かれて東京ですと答えたら、遠いのにえらいね、と言われた。えらくはない、と思った。

席をはずしてトイレに立った。

用を足して、手を洗いながら、ポケットの中のスマホに触れた。試合はもう始まっている時間帯だった。現地は朝、日本は夜。スマホのロックを解除して、スコア速報のアプリを開いた。

二対一。日本がリードしていた。五回表。

画面の中に、観たかった世界がスコアの数字だけで存在していた。あの球場で、何万人が立ち上がって声を出しているはずの試合が、俺の手のひらの中では数字の並びに圧縮されていた。二対一。三文字で済んでしまう。

アプリを閉じようとして、閉じられなかった。速報のタブを引っ張ると、投手の球数とか走者の位置とかが出てきて、そこに書いてある情報のひとつひとつが、画面の向こう側の時間を指していた。今、この瞬間にもマウンドの上に誰かが立っている。俺はトイレにいる。通夜のトイレに。

画面を閉じて、洗面台の鏡を見た。喪服を着た男がスマホを持ってスコアを確認している。絵面として相当みっともないと思ったが、やめられるかどうかは別の問題だった。

席に戻った。おじさんが日本酒のお代わりを持ってきてくれていて、ありがとうございますと言って受け取った。飲みながら、頭の半分は五回表の二対一にあった。今ごろ六回に入ったかもしれない。点差は変わったか。追いつかれていないか。

真紀がどこにいるのかは、そのとき把握していなかった。

通夜が終わって、親族が引き上げていった。俺は言われるまま布団を敷いてもらった部屋に入って、喪服を脱いで、下着姿で横になった。スマホを見た。試合は終わっていた。

勝っていた。

三対二。最終回に一点差を守り切ったらしい。優勝。SNSには歓喜の投稿が溢れていた。泣いている人の写真、球場の全景、紙吹雪、抱き合う選手たち。俺はそれを布団の中で見た。天井が暗かった。スマホの画面だけが光っていた。

勝った。

嬉しいはずだった。応援していたチームが勝った。歴史に残る試合を目撃する――はずだった。目撃しなかった。代わりに通夜に出た。正しいほうを選んだ。誰に聞いてもそう言うだろう。通夜と野球なら通夜だろう。当たり前だ。

当たり前のことをした。それだけのことだ。

隣の部屋から声が聞こえた。真紀と、真紀の母と、真紀の姉の声だった。何を話しているかまでは聞き取れなかったが、ときどき笑い声が混ざった。泣いたあとの笑い声だった。たぶん義父の思い出話をしているのだろう。あの人はこうだったよね、ああだったよね、と。

俺はその輪の中に入れない。入る権利がないわけじゃないが、入る厚みがない。義父との思い出を語れと言われたら、野球の中継を一緒に観たことくらいしか出てこない。それを言ったところで、ああそうねえ、と返されて終わるだろう。

まあ、来ただけ良しとしてくれ。そう思った。来ただけ良しとしてくれ、という言い方は、来たこと自体を自分の手柄にしている言い方だと気づいたが、他に言いようがなかった。

俺は目を閉じた。画面の中の三対二が、まぶたの裏にまだ残っていた。

正しいことをしたはずなのに、何も満たされていなかった。

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