お父さんが死んだ日、私は会社にいた。
母からの電話に出たとき、最初の三秒くらいは何を言われているのかわからなかった。お父さんが、と母が言って、倒れて、と言って、それからもう、と言った。「もう」の先を母は言えなかった。言えなかったことで、私にはわかった。
会社のトイレの個室で聞いた。受話器を、いや受話器ではない、スマホを耳に当てて、便座の蓋に座って、白い壁を見ていた。母は泣いていた。私は泣いていなかった。泣かなかったのは悲しくなかったからではなく、泣くと次の手が打てなくなると思ったからだ。飛行機を取らなければ。上司に言わなければ。洋に連絡しなければ。やることが頭の中に並んで、感情が順番を待っているような状態だった。
洋に電話をかけた。出た。声が明るかった――少し弾んでいた。それはそうだ。明日出発で、有休を取って、今ごろ荷造りをしているはずだから。私はそのことを知っていた。スーツケースを広げて、ユニフォームを入れて、パスポートを確認して、楽しい旅行の前日の空気のなかにいるはずだった。
お父さんが亡くなった、と伝えた。
洋は黙った。
その沈黙の長さを、私はたぶん一生忘れない。五秒か、十秒か。電話越しの沈黙は実際の長さより長く感じるものだけれど、それを差し引いてもあの間は長かった。あと一日遅かったら、と私は思った。一日遅かったら洋はもう飛行機の中だった。そうなったとき、帰ってこいと言えただろうか。言えたとして、洋は戻ってきただろうか。わからない。わからないけれど、あの沈黙の中に、そういう計算があったことだけはわかる。航空券の金額か、タイミングのことか、あるいはもっと漠然とした何かか。何を数えていたのかは知らない。ただ、数えていた。
「俺も行くよ」
と洋は言った。
ありがとうとは言えなかった。言うべきだったのかもしれない。仕事を休んで、高い航空券を捨てて、来てくれると言っている。感謝すべきだ。でも、父が死んだと聞いた夫の最初の反応が五秒の沈黙だったという事実が、喉のどこかに詰まっていて、ありがとうが通らなかった。
代わりに「うん」とだけ言った。
私は午後の便で九州に発った。空港に向かうタクシーの中で、初めて泣いた。運転手に見られたくなかったので窓のほうを向いて、音を出さないように泣いた。父は今朝、玄関で倒れたのだ。畑に出ようとして。母は「静かだったのよ」と言った。苦しまなかったと思いたいのだろう。私もそう思いたかった。
実家に着いたら、母は台所にいた。何人分もの茶を淹れていた。近所の人が来ていた。母は泣いたあとの顔をしていたが、動きは正確だった。急須を持つ手が震えているのを見て、私はそこで初めてこの人を支えなければと思った。
通夜の準備は母と私と姉の三人で回した。姉は車で一時間の場所に住んでいるので、昼過ぎには来ていた。花の手配、料理の確認、弔問客の対応、坊さんとの打ち合わせ。やることは無限にあった。やることがあるのは助かった。手を動かしていれば頭が止まってくれた。
洋が着いたのは夜の九時過ぎだった。
玄関で母が「来てくれてありがとうねえ」と言うのが聞こえた。私はそのとき、奥の部屋で葬儀社の人と翌日の段取りを電話で確認していた。洋が来たのはわかった。廊下の向こうに黒い服の男が立っているのが見えた。目が合ったので頭を下げた。電話中だったから声はかけられなかった。そう、電話中だった。だから声をかけなかった。
でも、本当は電話中でなくても同じだったかもしれない。
洋は来た。来てくれた。でもその「来てくれた」の中に、体温がなかった。説明しにくいのだけれど、人が来るということには重さがあるはずで、その重さが洋には足りなかった。物理的には同じ家の中にいる。でも私が父の死に向き合っている場所と、洋がいる場所は、同じ座標にはなかった。
通夜の席で、洋は端のほうに座っていた。親族の列のいちばん外側に。焼香を済ませて、手を合わせて、やることをやっていた。形式は全部こなしていた。文句のつけようがない。つけようがないのに何かが足りないと感じるのは私のわがままだろうか。たぶんわがままなのだろう。だって来てくれたのだから。航空券を捨てて、来てくれたのだから。
読経の間、私は父のことを考えていた。考えていたというか、父のことしか考えられなかった。畑の土の匂い。長靴を洗う水の音。夕方の台所で野球中継を見ている後ろ姿。母が「ご飯よ」と呼ぶまで動かない横顔。そういう断片が読経の声に混ざって浮かんできて、ひとつひとつが鋭かった。私は泣かなかった。ここで泣いたら、あとの段取りが全部止まる。喪主は兄だが、実務はほぼ私と姉が回していた。泣くのは全部終わってからだと決めていた。
通夜振る舞いの席で、私は台所と座敷を行き来した。料理が足りなくなって追加の手配をして、お酒を出して、空いた皿を下げて、弔問客に頭を下げた。洋がどこにいるかは何となくわかっていた。座敷の隅で、親戚のおじさんと話しているのが見えた。おじさんがお酒を注いでいた。洋はそれを受け取って飲んでいた。
席を外して廊下に出たとき、洋がトイレに入るのが見えた。しばらくして出てきた洋の目が、少し違っていた。具体的に何が違うのかはわからない。でもあの目は見覚えがあった。スマホを見たあとの目だ。画面の光を見た直後の、焦点が少しぼやけた感じ。何を見たのか、想像はついた。今日だった。あの試合は今日だった。時差があるから、今ごろ向こうでは――。
何も言わなかった。
言っても仕方がないと思った。言ったところで洋が悪びれるだけで、私が求めているのは悪びれることではなかった。何を求めているのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、夫が通夜の最中にトイレでスコアを確認しているという事実を、私は飲み込んで次の皿を運んだ。
来てくれただけいい。来てくれただけいい。自分にそう言い聞かせた。航空券を捨てて来てくれた。それは事実だ。事実なのに、なぜこんなに寂しいのだろう。
夜が更けて、弔問客が帰って、親戚も引き上げて、家の中が静かになった。洋は先に布団に入ったらしかった。奥の部屋の電気が消えていた。
母と姉と私は、居間に残った。母がお茶を淹れてくれた。父が死んだ日にも、この人はお茶を淹れている。この人はどんなときでも茶を淹れるのだ。
父の話をした。姉が「お父さんさ、」と切り出して、畑のきゅうりを近所に配りすぎて自分の分がなくなった話をした。母が「あの人はそういう人だったのよ」と言って笑った。笑ってから泣いた。私もつられて泣いた。声を出して泣いたのはその日初めてだった。
姉が母の背中をさすって、私は自分の膝の上で手を握っていた。この部屋にいる三人だけが、今夜、父を同じ重さで失っている。同じ記憶の中にいる。台所の匂いも、畑の土も、野球中継の音も、全部知っている三人。
洋は隣の部屋で寝ている。隣にいるのに、この輪の中にはいない。いないことを責める気はない。入れないのは当然のことだ。洋は洋で、来てくれた。航空券を捨てて。
もういい。航空券の話はもういい。
布団に入ったのは深夜の二時を過ぎていた。洋の隣に横になった。洋は寝ていた。寝息が規則的だった。眠れているならいい。一瞬そう思って、次の瞬間、なぜ眠れるのだろうと思った。なぜ眠れるのだろう。私の父が死んだ夜に、その家で、その布団で、安らかに眠れるのだろう。
それは――怒りではなかった。怒りなら声に出せた。もっと形のないもので、私を静かに蝕んだ。この人は悪い人ではない。私のためにここにいる。いるつもりでいる。つもりでいることと、実際にいることの間にある隔たりを、この人は知らない。知らないまま正しいことをしたと思っている。来ただけで。
通夜と葬儀が終わって、東京に戻って、日常が再開した。洋はいつも通りだった。いつも通りの朝、いつも通りの夕食、いつも通りの会話。父が死んだことが、洋の日常には一ミリも跡を残していなかった。
数日後の夜、洋が寝たあとに、私はスマホを開いた。
何かを書こうと思ったわけではなかった。眠れなくて、画面を見ていて、SNSを開いて、投稿の画面が出てきた。白い入力欄。カーソルが点滅している。
書いたのは短い文章だった。通夜のことを、具体的には書かなかった。誰のことかわからない程度にぼかした。でも書いた。父の通夜の夜に私がどれだけ一人だったかを。隣の部屋で寝息を立てていた人のことを。来てくれたのに、いなかった人のことを。
投稿ボタンを押す前に、一度だけ考えた。これを出したらどうなるか。でもそのときの私には「どうなるか」を考える余力がなかった。日記に書けばよかったのかもしれない。ノートに書けばよかった。でもノートでは足りなかった。この孤独が自分の中だけで完結することに耐えられなかった。誰かに届かなくていい。でも、自分の外に出したかった。声にならない声を空気に触れさせたかった。それだけだった。
ボタンを押した。
そのあとどうなるかは、まだわからない。
でもひとつだけ言っておくと、もし洋がこれを読んだとしても、私がなぜこんなことを書いたのか、たぶん洋にはわからないだろう。航空券を捨てて来た。通夜に出た。焼香もした。形式はすべてこなした。だから何が悪いのか、と。
何が悪いのかではない。何が足りなかったのかだ。
でもそれは、説明して伝わることではないのかもしれない。五秒の沈黙の中で何かを数えていた人に、あの夜の私の孤独を説明する言葉を、私は持っていない。